第5話:笑ってない、みんな
週明けの月曜日、朝の教室にはどこか張りつめた空気が漂っていた。今日は全校集会がある。その準備のために、各クラスの係が分担して備品を運ぶことになっていたが——。
「……あれ、ステージの装飾、まだ置いてないじゃん」
誰かの小さな声が教室の空気を震わせた。
係の一人が寝坊したらしく、予定されていた装飾がまったく準備できていなかったのだ。他の係も「自分の担当じゃないし」と静観しているような雰囲気。誰が悪いとも言い切れない微妙な空気が、じわじわと教室を包み込んでいた。
そのとき——。
「僕、やってくるよ」
蓮は静かに立ち上がった。誰かが困っているとき、手を差し伸べるのは彼にとって当然のことだった。
「蓮、いいよ、それ……別にあんたの仕事じゃ——」
「大丈夫。準備が遅れたら、みんなが困るから」
そう言って、蓮は装飾のダンボールを両手に抱え、教室を出ようとする。その瞬間だった。
「やらないで」
淡々とした声が、背後から飛んできた。振り返ると、そこには葵がいた。目を逸らすことなく、真っ直ぐこちらを見ている。
「それ、誰も嬉しくないから」
一瞬、教室全体の時間が止まったように静まりかえった。
「……どういうこと?」
蓮が眉を寄せて問い返すと、葵はため息をつくように、少しだけ目を伏せた。
「みんなさ、助けてくれてありがとうって言うけど……内心じゃ“気まずい”って思ってる。ホッとしてる自分に罪悪感感じてるの。わかんない?」
蓮は手に持った箱をゆっくりと床に下ろした。彼の視線は、教室の仲間たちを順に辿る。口では何も言わない。けれど、その瞳の奥にある複雑な色——申し訳なさ、安堵、そして逃げるような気まずさ。
葵が続ける。
「“最大多数の最大幸福”って言うけどさ、じゃあその“最大多数”のために一人が傷ついたら、それって幸せって言えるの?」
「……でも、僕が我慢すれば、みんなは困らない。助かるんだ」
「そうかな?」
葵は一歩近づいてきた。彼女の声は低く、けれどはっきりと響いた。
「みんな笑ってないよ。あんたも見たでしょ? 笑顔って、ただの“表情”じゃないんだよ。心から笑ってるかどうかなんて、見ればわかるじゃん」
蓮は何も言えなかった。
彼女の言葉は、まるで鋭利なナイフのように、彼の「正しさ」を切り裂いていく。それが痛いのは、彼女が間違っていないからだ。
(僕は、みんなのために動いてる。それで、ちゃんと世界は少し良くなる。……そう思ってたのに)
静かに、心の奥底で何かがきしむ音がした。
——それでも、やっぱり「やらなきゃ」って思ってしまうのは、癖みたいなものだろうか。
でも、今はもう、素直に動けなかった。
彼の中に、“自分の感情”という名のノイズが初めて割り込んできていた。
どうして彼女の声が、こんなにも耳に残るのだろう。
なぜ、あの瞳を見ていると、自分の正義が薄っぺらく思えてしまうのだろう。
なぜ、彼女の存在がこんなにも、胸をざわつかせるのだろう。
この日——蓮の中で、確かに何かが揺らいだ。
その日の放課後。教室には誰もいなくなり、窓の外には茜色がにじんでいた。
蓮はひとり、窓際の席に座っていた。
ノートに走らせた手を止め、ふと顔を上げる。
(正しいことしかしてないはずなのに——)
風が窓を揺らし、カーテンがふわりと揺れる。
——なんで僕の心は、こんなに騒がしいんだろう。
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