第2話:優しさの代償
午後の体育館は、春の光が窓から差し込んで、床にまばゆいほどの長い影を落としていた。今日は跳び箱の実技テスト。クラス全員が緊張の面持ちで順番を待っていた。
結城蓮も、その列のひとりだった。けれど、ただ自分の番を待つだけではない。周囲の様子にさりげなく目を配り、困っている子がいないかを無意識に探していた。
そして、見つけてしまう。
前の方で、小柄な女子が跳び箱の前に立ったまま固まっている。彼女は高く積まれた跳び箱を前に、足がすくんで動けないでいた。
「……うぅ、ごめん、無理かも……」
周りからは少しずつざわめきが生まれる。教師が近づこうとしたとき、蓮は迷わずその子のもとへ歩み寄った。
「大丈夫。ここから一緒に練習しよう」
蓮の声は柔らかく、落ち着いていた。彼は跳び箱の横に立ち、踏切位置を指さして言う。
「ここでしっかり踏んで、腕を前に伸ばす。怖かったら、僕が支えるから」
少女は不安そうに彼を見たが、次第に呼吸を整えてうなずいた。
数分後、少女は見事に跳び箱を越えた。拍手が起き、彼女は涙目で「ありがとう!」と蓮に笑いかけた。
けれど、その瞬間、笛が鳴った。
「はい、終了ー! 今日のテストはここまで!」
時間切れだった。蓮の番は、訪れないまま終わった。
「うわ、蓮またかよ」「マジで人助けで自分の番なくすの、何回目だよ」
笑い混じりの声が聞こえたが、蓮はどこか遠いところを見るような目で微笑み返すだけだった。
更衣室。友人たちが服を着替えながら、蓮の話題をしているのが聞こえた。
「まあ、すごいよな。あそこまで他人に尽くせるって」
「うん……でもさ、ちょっと怖くない? なんか“やってあげてる”感あるっていうか」
「わかる。あそこまで完璧だと、逆に自分が情けなくなるっていうか……」
蓮はロッカーの扉の陰で、そっと息を吐いた。
自分の行動が“善意”であるはずなのに、それが時に人を委縮させることもある。それはもう、何度も経験してきたことだった。
「でもいいんだ、誰かが助かるなら……」
帰り道。校門の前で自転車を押していた蓮に、隼人が追いついてくる。
「おーい、蓮。お前さ、今日の体育……また自分の番、逃しただろ」
「うん。まあ、仕方ないよ」
「仕方なくねぇだろ。毎回毎回、他人の世話焼いて自分のこと後回しにして……お前、損してるって気づいてる?」
隼人の声には、呆れとも心配ともつかない響きがあった。
蓮は少しだけ考えるように空を見上げた後、静かに言った。
「僕が動けば、誰かが楽になる。それで十分だよ」
隼人はしばらく黙っていたが、やがて苦笑した。
「……お前が本気でそう思ってんなら、ちょっとヤベーかもな」
「なんで?」
「なんでって、お前……たぶん、自分のこと全然大事にしてねぇだろ」
蓮は答えなかった。答えられなかった。
自分のことを大事にする、なんて考えたことがなかったから。
家に帰ると、母親が夕食の支度をしていた。
「おかえり、蓮。今日はどうだった?」
「うん、普通だよ」
蓮は笑って答えながら、制服を脱ぎ、鞄を置いた。そのままリビングに座り、窓の外をぼんやりと見つめる。
“普通”という言葉が、こんなにも虚しく響く日があるなんて。
跳び箱を飛べなかったことを、蓮は悔いていなかった。ただ、あの女子が助かったことに心から安堵していた。それでも、どこか胸の奥に、小さく疼くような痛みが残っていた。
「これが代償なら、僕は——受け入れるよ」
自分の幸せより、誰かの幸福を。そう選び続けてきた。
だけど、それが本当に“幸福”なのかは、まだわからないままだった。
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