さよならを、まだ知らない僕らは

夏凜

第1章:出会いと衝突

第1話:彼は「いい人」だった

 朝の教室は、ざわめきと喧騒に包まれていた。机の移動、プリントの回収、どこからか聞こえてくる笑い声。どれもこれも、いつもの風景。けれど、そこにひときわ静かな存在がいた。


 結城蓮は、黙々と雑務をこなしていた。誰に頼まれたわけでもなく、前の日にクラス委員が机の上に置き忘れたプリントの束を配り歩き、忘れ物をした子にはそっとノートを差し出す。椅子の脚がぐらついていた生徒には、自分の椅子を譲り、自分は教室の隅にあった予備の古びた椅子に座った。


 「結城くん、ありがと……」


 そう言いかけた女子生徒は、言葉の最後を飲み込んで少し困ったように笑う。その笑顔の裏に、蓮は見慣れた気配を感じる。


 気まずさ。


 「ありがとう」は聞こえる。でも、その声にはどこか迷いがある。善意に対する素直な感謝ではなく、「申し訳ない」という罪悪感に近い。それがわかっていても、蓮は気にする素振りひとつ見せず、淡々と手を動かす。


 「……別に、いいんだ」


 自席に戻った蓮は、壊れた椅子に腰掛けながら小さく息をついた。誰かのために動ける自分が、嫌いではなかった。むしろ、それこそが“正しい”ことだと信じていた。


 「全員のために動ける人が、最も“善い人間”だと思う」


 それは、いつからか自分の中に根付いていた信念だった。


 たとえば、今日みたいな日。誰かが忘れ物をしたとき、それを助けられる自分でありたい。誰かが困っていたら、自分が代わりになりたい。それが、みんなにとって“幸福”につながるのなら。


 功利主義——それが蓮の行動原理だった。


 最大多数の最大幸福。犠牲が伴ったとしても、結果として多くの人が笑顔でいられるのなら、それが最善であり、最も価値ある行動だ。そう信じて疑わなかった。


 自分の感情? そんなもの、二の次だ。


 むしろ、それを優先することに怖さすら感じる。自己を主張することが、誰かを傷つける可能性を孕んでいるのなら、最初から捨ててしまった方がいい。だから蓮は、自分の「したい」より、「すべき」を選び続けてきた。


 そうすれば、みんなにとって都合のいい“いい人”になれる。少なくとも、誰かを傷つけることはない。


 それが、蓮が選んだ“正しさ”だった。


 「結城くんって、ほんとに優しいよね……でも、ちょっと完璧すぎて近寄りにくいっていうか」


 教室の隅で囁かれたそんな声も、蓮には聞こえていた。だけど、それを責める気にはなれなかった。むしろ、そう思わせてしまった自分の不完全さを責める。


 「いい人」だと呼ばれることに、蓮はどこか違和感を抱きながらも、その呼び名に逆らうことはなかった。


 今日もまた、誰かのために動いた。


 その結果、自分のために用意された体育の体力測定に参加しそびれたとしても、誰かの役に立てたなら、それでいい。


 休み時間、教室に戻った蓮の姿を見て、数人の男子が小声で言う。


 「また手伝ってたの? あの子、ほんと献身的すぎない?」


 「悪い人じゃないけど、なんか……聖人みたいで引くわ」


 誰もが明確に嫌っているわけじゃない。むしろ、好意的ですらある。けれど、その好意には距離がある。壁がある。まるで、蓮の“完璧な善意”が、自分たちの不完全さを照らし出してしまうことへの無意識の恐れのように。


 それでも蓮は微笑み、また黙って次の仕事に取り掛かる。


 「いい人」だった。誰もがそう認める存在だった。


 でも——その“いい人”の輪郭は、どこか寂しげだった。

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