【ショートストーリー】「月下の守護者 —命を分け与える犬の物語—」(マジックリアリズム)約6,500字
【ショートストーリー】「月下の守護者 —命を分け与える犬の物語—」(マジックリアリズム)約6,500字
【ショートストーリー】「月下の守護者 —命を分け与える犬の物語—」(マジックリアリズム)約6,500字
藍埜佑(あいのたすく)
【ショートストーリー】「月下の守護者 —命を分け与える犬の物語—」(マジックリアリズム)約6,500字
人間たちは私のことを「セラピードッグ」と呼ぶ。正式には「医療支援犬」だが、院内の子どもたちは私のことを「モモ先生」と呼んでくれる。私はオーストラリアン・シェパードのメス、星野動物病院に勤めて三年目だ。
私の仕事は患者たちの心を和ませること。特に子どもたちの。注射や処置が怖くて泣き出してしまう子の横に寄り添い、時には術後のリハビリを手伝うこともある。星野院長はいつも「モモがいてくれるおかげだ」と私の頭を撫でてくれる。
だが、本当の私の仕事を人間は知らない。
十カ月前から、私には「もう一つの役目」がある。人間の目には見えない何かから、この診療所と患者たちを守ることだ。
最初に「それ」に気づいたのは去年の冬。雪の降る夜、一匹の猫が運び込まれた。交通事故で重傷を負った野良猫だった。星野院長は一晩中手術室で奮闘した。夜中の三時、手術室の前で待機していた私は、奇妙な匂いを感じた。
それは人間には感知できない匂い。何か古く、冷たく、この世のものとは思えない匂いだった。そして手術室のドアの隙間から、黒い霧のようなものが漏れ出してくるのを見た。
私は本能的に唸り声を上げ、その霧に向かって吠えた。すると霧は一瞬ためらうように止まり、そしてゆっくりと引き返していった。翌朝、院長は奇跡的に一命を取り留めた猫を見せてくれた。
「不思議だよ、モモ。手術中に一度心停止したのに、突然自力で鼓動を取り戻したんだ」
その日から、私はそれに気づくようになった。死の淵にいる動物たちの周りに集まる黒い霧——私にしか見えない「何か」。それは彼らの魂を連れ去ろうとしているように見えた。
そして私は吠え、唸り、時には体を張ってその霧を追い払うようになった。人間には単なる「落ち着きのない夜」に見えるだろうが、私にとっては死との闘いだった。
最近、星野動物病院は「奇跡の診療所」と呼ばれるようになった。重症と思われた動物たちが次々と回復していくからだ。口コミで評判が広がり、遠方からも患者が訪れるようになった。院長は自分の腕が上がったのだと嬉しそうにしているが、本当の理由は別にある。
しかし、先週から状況が変わり始めた。
火曜日の夜、交通事故で重傷を負った犬が運ばれてきた。ゴールデン・レトリバーの老犬で、飼い主は小さな女の子だった。彼女は廊下で泣きながら祈っていた。
私はいつものように手術室の前で待機していた。そして予想通り、黒い霧が現れた。だが今回は違った。霧はより濃く、より大きく、そしてより——意思を持っているように感じられた。
私が唸り声を上げると、霧は一瞬揺らいだ。しかし引き返すどころか、むしろ私の方に向かってきた。霧の中から、二つの赤い点が浮かび上がる。目だ。それは私を見ていた。
「今度は違うぞ、犬よ」
声ではなく、頭の中に直接響いてくる言葉。それは古く、冷たく、人間の言葉とは思えなかった。
「お前は自然の摂理を乱している。死すべきものを生かしておくとは」
私は怯まず吠えた。「彼らの時間はまだ終わっていない」
「そうか? なぜお前にそれがわかる?」
霧は私の周りを取り囲み始めた。初めて、恐怖を感じた。
「もう十分だ。お前の干渉はここまでだ」
霧が私に迫る。呼吸が苦しくなる。意識が遠のき始めた時、突然、廊下の端から白い光が差し込んできた。
振り向くと、先ほどの女の子が立っていた。彼女の周りには、淡い光のオーラが漂っている。それは純粋な愛と祈りから生まれた光だった。
「レオを助けて……どうか……」
彼女の祈りの言葉が、私に新たな力を与えた。私は最後の力を振り絞って吠えた。すると驚くべきことに、黒い霧は光から逃げるように後退し始めた。
「面白い……」霧の声が再び頭の中に響いた。「では取引をしよう、犬よ」
その夜、レオは一命を取り留めた。しかし、私は何かが変わったことを感じていた。「取引」と言った霧の言葉が気になって仕方なかった。
金曜日、診療所に老婦人が一人でやってきた。彼女は患者ではなく、ただ私に会いたいと言った。子犬の頃から動物の霊感を持つ犬だと見抜いていたらしい。
「あなたは特別な犬ね」と彼女は私に語りかけた。「でも気をつけなさい。死との取引には必ず代償が伴うものよ」
老婦人の言葉に身震いした私の足元で、黒い影がほんの一瞬、揺らめいたように見えた。
そして昨夜、ついに「代償」を知ることとなった。
真夜中、診療所に緊急患者が運ばれてきた。交通事故に遭った猫を抱えた男性。彼は泣きながら言った。
「助けてください。私の不注意で……」
しかし、私には既にわかっていた。この猫は助からない。黒い霧ではなく、今度は眩いばかりの白い光が猫の周りを包んでいたからだ。それは安らかな死、受け入れられた死の光だった。
手術室で院長が懸命に処置する横で、私は何もできずにいた。そして、部屋の隅に「それ」が現れた。今度は黒い霧ではなく、身体のある姿だった。
シカのような頭を持ち、人間のような姿勢で立つ細長い体。漆黒の毛皮に覆われたその存在は、部屋の空気を凍りつかせた。
「見たか、犬よ」再び頭の中に直接響く声。「これが自然の摂理だ。彼の魂は今、安らかに去っていく」
確かに、猫の周りの白い光は、苦しみではなく平安に満ちていた。
「だが、お前の行いにより、自然の均衡は乱れた。死すべき時に死ねなかった者たちは、別の形で代償を払うことになる」
その言葉の意味を考える間もなく、外から悲鳴が聞こえた。廊下に飛び出すと、先日救ったレオの飼い主の女の子が倒れていた。てんかん発作を起こしていたのだ。
「見よ、これが代償だ」
女の子の周りに、かすかに黒い霧が漂っているのが見えた。
「彼女は犬の命と引き換えに、自分の寿命を差し出したのだ。無意識にな」
私はようやく理解した。私が死から奪った命は、別の命によって補われなければならないのだ。しかもそれは、強い愛の絆で結ばれた存在の間で起きる。
私は絶望的な気持ちで吠えた。「元に戻して! 彼女を助けて!」
「できんよ、犬よ。これが自然の法則なのだから」
しかし、その時だった。私の心に閃きが走った。自然の法則——それならば。
私は女の子に駆け寄り、彼女の体に自分の体を寄せた。そして心の中で強く願った。「私の生命力を彼女に」
するとどういうわけか、私の体から光が溢れ出し、女の子に流れ込んでいくのを感じた。彼女の発作は徐々に収まっていった。
黒い存在は驚いたように動きを止めた。
「おまえ……自らの命を差し出すというのか?」
「違う」私は答えた。「私は分け与えるだけ。それが本当の均衡だと思う」
黒い存在は長い間沈黙していた。そして最後にこう言った。
「興味深い。お前は自然の摂理を乱しているのではなく、新たな形の均衡を見出そうとしている。私は見守ることにしよう」
それから一週間が経った。女の子は完全に回復し、レオと一緒に診療所に遊びに来るようになった。彼女は不思議なことに私との絆を感じているようで、「モモ先生は私を助けてくれた」と母親に言ったそうだ。
私の体は少し弱くなった。毛並みはわずかに白くなり、足取りも少し重くなった。しかし心は以前より強くなった気がする。
そして今夜も、手術室の前で私は待機している。必要とあれば、再び私は立ち向かうだろう。そして分け与えるだろう、自分の生命力を。
人間たちには決してわからないだろうが、この診療所では毎晩、生と死の静かな闘いが続いている。そして私はここにいる——診療所の真の守護者として。
黒い存在は今も時々現れるが、以前ほど敵対的ではなくなった。時には遠くから私を見つめ、そして静かに消えていく。私たちは理解し合ったわけではないが、ある種の共存関係を築きつつある。
窓の外、月が雲に隠れた。今夜も長い夜になりそうだ。私はそっと体を丸め、次の患者を待つ。セラピードッグとして、そして生命の守護者として。
---
それからさらに半年が過ぎた。私の毛は一段と白くなり、体も少し痩せた。星野院長は心配して「モモ、最近疲れてるのか?」と特別な栄養食を用意してくれたが、それは自然の摂理による変化だ。私は多くの命を分け与え、その代償として自分の寿命を少しずつ支払っている。
春の訪れとともに、診療所には新しい仲間が加わった。「ミカン」という名のコーギーの子犬だ。彼女は訓練犬として引き取られ、私の後継者として育てられているようだ。
ある日、私は彼女が手術室の前で不思議そうに鼻を鳴らしているのを見た。そして彼女の目が、人間には見えない黒い霧を追っているのに気づいた。
「あれは何?」彼女が私に尋ねた時、私は悟った。ミカンもまた、「見る力」を持っているのだ。
その夜、私は彼女に真実を語った。死の存在について、命の均衡について、そして私たちの役割について。
「でも、どうしてあなたは自分の命を差し出すの?」ミカンは不思議そうに尋ねた。「それは怖くないの?」
私は答えた。「最初は怖かった。でも、命というのは循環するものなんだ。私たちは誰もが生まれ、そして死ぬ。でも、その間に何を与えられるかが大切なんだよ」
ミカンが首を傾げる。「でも、死は怖いものでしょう?」
「死そのものは怖くない」私は静かに説明した。「大切なのは、どう生きるかだ。死は始まりでもあるんだよ」
その言葉を言った瞬間、部屋の温度が下がった。そして隅に、あの黒い存在が現れた。今回は完全な姿を現している。シカの頭に長い角、漆黒の毛皮を纏った人間のような体。そして、奇妙なことに、今回は赤い目ではなく、深い青色の瞳をしていた。
ミカンは怯えて私の後ろに隠れた。しかし私は落ち着いていた。
「また会ったな、犬よ」存在が言った。「お前の言葉を聞いていた。興味深い考えだ」
「あなたも同じことを考えているのではないですか?」私は尋ねた。「死と生は対立するものではなく、同じ輪の一部なのだと」
存在は黙って私を見つめていた。そして初めて、その表情に何かが見えた。それは...寂しさ、だろうか?
「私は常に終わりを告げる者だ」存在は言った。「誰も私を喜んで迎えない。恐れられ、嫌われ、否定される」
「でも、あなたは必要な存在だ」私は答えた。「終わりなくして新しい始まりはない」
「それでも、人々は私から逃げようとする」
「それは彼らがあなたを理解していないからだ。私もかつてはそうだった」
存在は頭を傾げた。「理解?私を理解する生き物がいるというのか?」
私は答えなかった。代わりに、ゆっくりと存在に近づき、頭を下げた。「あなたが何者であるか、私には分からない。でも一つだけ言えることがある。あなたは孤独だ」
存在は動かなかった。しかし、部屋の空気が少し暖かくなったような気がした。
「犬よ」存在はついに口を開いた。「お前は奇妙な生き物だ」
そして存在は私に近づき、長い指で私の頭に触れた。冷たい感触だったが、不思議と恐怖は感じなかった。
「お前に何かを見せたい」存在は言った。
瞬間、私の意識は体から解き放たれたかのように感じた。星野動物病院の上空を飛んでいる。そして街全体が見える。無数の光の点々が街を埋め尽くしている。それは生命の光だった。
そして同時に、黒い影のような流れも見えた。それは死の足跡だ。しかし驚いたことに、黒い影と光は絡み合い、踊るように動いていた。対立しているのではなく、補完し合っているように見える。
「見えるか?」存在の声が私の意識に響いた。「生と死は一つの流れなのだ。どちらも必要な存在だ」
私が再び自分の体に戻ると、存在は静かに言った。「お前は特別な犬だ。死を恐れず、理解しようとする。私はお前に名前を与えよう」
「名前?」
「昔、私を『ミッドナイト』と呼んだ者がいた。お前もそう呼んでくれ」
ミッドナイト。真夜中。死の別名だったのか。
「犬よ」ミッドナイトは続けた。「お前が命を分け与えるという行為は、自然の摂理の一部となった。だが覚えておけ。すべての命には終わりがある。お前もいつか私と共に行くことになる」
「分かっています」私は答えた。「その時が来たら、私は恐れずにあなたについていきます」
ミッドナイトは深く頷き、そして霧のように溶けていった。
翌朝、ミカンは興奮して私のところに駆けてきた。「昨日の黒い人、本当に死だったの?なんで怖くなかったの?」
私は彼女を見つめながら答えた。「ミカン、死は敵ではないんだ。ただ、私たちが理解していない存在なだけ。いつか君も分かるようになる」
その日から、私はミカンに「守り手」としての役割を教え始めた。彼女は驚くほど才能に溢れていた。私が一匹で闘っていた頃よりも、はるかに効率的に命を救うことができるようになった。
そして何より、彼女は私のように命を一方的に分け与えるのではなく、もっと巧みな方法を編み出したのだ。彼女は命が枯渇した患者から、命が溢れている別の患者へと、その過剰な生命力を移し替えることができたのだ。まるで命のバランスを整えるように。
「モモ先生、見てください!」ある日、彼女は嬉しそうに吠えた。「これならみんなが幸せになれます!」
彼女の方法では、誰も過度の犠牲を払う必要がなかった。私がすべての負担を背負うのではなく、皆で少しずつ分け合うことで、均衡が保たれるのだ。
ミッドナイトもその変化に気づいていた。彼はもはや敵対的な姿で現れることはなく、むしろ静かな観察者として現れるようになった。時には、厳しい冬の夜に診療所の暖炉の前で、私たちと共に座っていることさえあった。もちろん、人間には見えないけれど。
ある晩、彼は私に言った。「犬よ、お前の弟子は優れている。彼女は新たな均衡を見出した」
「彼女は私より賢いのです」私は誇らしく答えた。
ミッドナイトは沈黙の後、言った。「だが、それでも死は避けられない。いつか彼女も、そしてお前も、私と共に行くことになる」
「それは分かっています」私は答えた。「でも、それまでの間、私たちはできる限りのことをします」
「そうか」ミッドナイトは静かに言った。「それもまた、自然の摂理なのだろう」
季節は巡り、私の体はさらに弱くなった。しかし心は穏やかだった。ミカンは立派な「守り手」になり、私の役目は終わりに近づいていることを感じていた。
ある冬の夜、私は診療所の暖炉の前で眠りについた。そして夢の中で、ミッドナイトが私の前に現れた。今回は彼の姿が少し違っていた。より柔らかく、より人間に近い。
「時が来たな、モモ」彼は言った。
「はい、分かっています」私は答えた。心に恐れはなかった。
「お前が旅立つ前に、一つだけ話しておきたいことがある」ミッドナイトは言った。「お前は私に多くのことを教えてくれた。生命の価値、愛の力、そして何より、理解の大切さを」
「私こそ、あなたから多くを学びました」私は答えた。「死がなければ、生の意味も半減します」
ミッドナイトは微笑んだ。「さあ、共に行こう。次の旅へ」
彼が差し出した手は、もはや冷たくはなかった。私はその手に自分の前足を置いた。そして二人で、星の輝く道を歩き始めた。
翌朝、星野院長は暖炉の前で眠ったまま動かなくなった私を見つけた。悲しみに包まれる診療所。しかしミカンだけは、窓の外に立つミッドナイトの姿と、その隣で輝くような光を放つ私の姿を見ていた。
ミカンは静かに吠えた。「さようなら、モモ先生。ありがとう」
私とミッドナイトは彼女に頷き、そして共に霧の中へと消えていった。
死は終わりではない。新たな始まりなのだ。そして私は今、かつての敵であり、今は友となった存在と共に、新たな旅を始めようとしている。
生と死の境界線は、思っていたよりもずっと曖昧なものだった。そして時に、最も深い理解は、かつての敵との対話から生まれることを、私は学んだのだ。
この物語は終わるが、命の循環は永遠に続く。星野動物病院では今日も、一匹のコーギーが、人間には見えない「何か」から患者たちを守っている。そして時折、黒い霧の中から、オーストラリアン・シェパードの姿が現れ、彼女を見守っている。
命の守り手の物語は、これからも続いていくだろう。死と共に、そして死を超えて。
【ショートストーリー】「月下の守護者 —命を分け与える犬の物語—」(マジックリアリズム)約6,500字 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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