観測されたくて、手を伸ばした

白澤 玲

プロローグ

「観測されないものは、やがて存在しなくなる」


春の匂いがしていた。

少し湿ったコンクリートの匂いと朝の光が混じって、私はこの季節が少し苦手だった。

高校二年の初日。

教室にはまだ誰もいなかった。早く来すぎた。

窓を開けると、風がひとつ吹き抜ける。

黒板の前に立てかけられたモップが、ぎし、と小さな音を立てた。

――誰もいないはずの教室で、モップだけが動いた。

それだけのことなのに、なぜかその瞬間、私は妙な違和感を覚えた。

それを見ているのは、私だけ。

今、この教室に存在しているものは、私の目に映るものだけ。

そんなふうに考えたら、足元の床さえ、突然「本当にあるのか?」と疑わしくなって、そっと足をずらした。

「存在は観測によって保証される。……あの人、そんなこと言ってたっけ」

自分の声が、静まり返った空間にふわっと浮かんで、どこかに消えた。

あの人。

私よりも早くこの学校に来ていて、だけど、誰よりもこの学校から遠いところにいた人。

変なことばかり言うくせに、その言葉はなぜかずっと、私の中に残っている。

「事実なら、言ってもいいと思う?」

その時、彼は私にそう聞いた。

もしあの時、私が黙って頷いていたら、私たちの「この話」は、始まらなかったのかもしれない。

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