異世界銭湯記【汚れを洗い世界を浄化】
AIRO
プロローグ 湯で死ぬが本望
「締切、明日です!」
「このページ、温泉の泉質が間違ってますよ!」
「写真の差し替え、あと4カット……」
夕方だか夜だかもわからない、編集部の照明の下で、私、
ラ》は今日も仕事に追われていた。頭の中は湯気ではなく、文字と赤ペンとカフェインでいっぱいだ。
——温泉特集号。
数年前、自分から志願した企画だった。
自分の得意で好きな分野を仕事に出来たら……そんな思いで「温泉をもっと知って
しいんです!私ならやれます!」と、熱弁して企画を通した。実際、全国各地の温泉地を回り、取材して、レイアウトにもこだわって。今では特集号を出せるようにもなっていた。好きなことを仕事にできた。夢のようだった。
——けれど今は、夢が苦痛になっていた。
温泉地での取材は全て終えている。けれど編集作業は夜を超えて続いた。「いいお湯でした」なんて一行を書くだけで、2時間悩んだ夜もあった。
「こんな状態で温泉を語る資格、私にあるのかな……」
私はふと、自分の髪が湯気ではなく脂に濡れていることに気付いた。
「そうだ……この特集が終わったら、絶対、温泉に行こう」
カレンダーに空白の三日間を見つけた。編集長に申し出ると、「死ぬ前に休め」と苦笑され、ようやく許可が下りた。
その日から私は、一分一秒の睡眠を削ってでも作業を終わらせた。
「この手で作った特集を読みながら、温泉に浸かってやる」
そして、ついに特集号は完成した。手元の見本誌を抱え、私は電車に揺られていた。
目指すは、かつて取材中に一目惚れした、山奥の秘湯「生まれ変わりの湯」
「何も考えずに、ただ湯に溶けたい……」
老舗旅館の木戸をくぐり、帳場でチェックインを済ませると、夕食も早々に済ませて、私は露天風呂へと足を運んだ。
星が、近い。風が、優しい。
湯が、体の芯まで染み込んでいく。思わず、笑みがこぼれた。
「はぁぁぁあああ……さいっっっっっっこーーーーーーーーーー!」
堪らず口から飛び出た言葉はやまびことして返ってきた。
「そんなに気持ちいのですか?私も入ってよろしいですか?」
「ど、どうぞ!どうぞ!すみません、大きな声出しちゃって」
いつの間にいたのか、全然気付かず、恥ずかしいところを見られてしまった。
「わぁ、本当に気持ちがいいですね。たまにはいいですよねぇ。温泉」
「そ、そうですね。あはは……」
隣に入ってきた人はよく見ると日本人には見えなかった。端正な顔立ち、スタイルのいい身体、汚れ自体が避けていくのではないかと思うほどの綺麗な肌。女の私から見ても見惚れてしまうほどの美人だった。
風呂場でじろじろ見るのは失礼だなと思い、目を逸らし湯に集中した。
「それでは、お先に失礼しますね」
「あ、はい、どうも」
「長風呂は気を付けないとダメですよ?」
「はい……ありがとうございます?」
そう言い残し、美人さんは早々に上がって行ってしまった。
一人になって、リラックスしてきた。湯のぬくもりに包まれながら、疲れが湯に溶け出していく、そして、私自身も湯に溶けていくような感覚が襲ってきた。まぶたがゆっくりと降りていく。
「疲れと気持ちよさで……ねむ……く——」
——
他の宿泊客に発見されたとき、私は水死体として引き上げられた。まるで微笑んでいるかの表情で。手には、折り目のついた自分の雑誌が握られていた。
——私は、好きなものに包まれて、そして死んでしまった。
湯野 咲良、享年29歳。
「という状況であなたは死んでしまいましたね」
「うーむ。温泉の中で死ねるとは本望っちゃ本望……だけど、さすがに恥ずかしいなぁ!そんなに疲れていたのか私は!」
「そうみたいですね。お風呂が好きなのに長いことお風呂にも入れず、頑張りすぎた結果がお風呂での溺死とは……ふ」
この小バカにしているような人は一体誰なんだ?美人だけど……そしてここはどこ?
「だから長風呂には気を付けてと言ったのに……やれやれですね」
「あ!!あの時の美人!!」
「そんなに褒めても何も出ませんよ?」
「それであなたは誰なんですか?」
「んー。あなたちの世界で言う神ですかね。女神。そう、美人女神です」
なんだこの人……ああ、人じゃないのか。
「それで、死んだ私はこの後どうなんですか?このままここで小バカにされるんですか?」
「そんな!神聞きの悪い」
「神聞き……」
「特に何もならないですよ?強いて言うなら、魂に戻ってどこぞで何かに生まれ変わるって流れになりますね」
「何に生まれ変わるんでしょうか?」
どこぞの何かという不穏な発言に、私は動揺した。
「何がいいですか?」
「選択式なんですか?」
「人が嫌で、人間以外がいいって人もいるんで、一応聞いているんです」
「そうですねぇ、次の人生はのんびり温泉を楽しめるような、そんな人生がいいです」
「ということは人間に?温泉が好きだった今の記憶も持ったまま、つまり転生したいと?」
「出来るんですか?」
うーん、と考え込む女神。神とも言えど、出来ないこととか決まりみたいなものがあるのだろうか?
「そうですねぇ、良くも悪くも『秘湯』で亡くなりましたからね。少しくらいは希望を聞いてあげますよ!」
私は考えた。編集者として日本の温泉はほとんど回ってしまった。出来れば別の国に生まれたいと女神に提案してみた。
「分かりました。それでは別の国に、記憶を持ったまま、ついでに温泉の在処が分かる能力もおまけしておきますね」
「え!そんなのも貰えるんですか!ひゃっほー!自分の温泉が掘れるー!」
「気持ちの準備はよろしいですか?」
「はいはい!そりゃもう完璧ですよ!いつでもどうぞ!」
私の足元が光り輝き、次第に意識が遠くなってきた。
「それでは、次の人生、存分に満喫してくださいね」
女神の声が聞こえたと思った次の瞬間、私は自分の産声を聞くこととなった。
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