第35話: 忘れられた声たち


 


風がなかった。音も、光も、なかった。

ただ、冷えた空気が沈んでいるだけだった。


 


廃墟の床に、スイは横たわっていた。

崩れた天井から覗く灰色の空が、ゆっくりと流れていく。

まぶたの奥には、まだいくつもの声が焼きついていた。


 


誰にも呼ばれなかった名前たち。

名を知られぬまま、武器として売られ、壊され、置き去りにされた子たち。

その魂を、スイは、確かに抱えた。

刃にはしなかった。ただ、静かに“安置”した。

生きた証として。忘れられぬように。


 


それでも、彼の体はもう、動かなかった。

魂を“聞きすぎた”代償は、想像より深く重かった。

それぞれが胸の内で、名も告げられぬまま、断片的な記憶と祈りだけを遺していた。


 


笑った声、誰かに向けた小さな手、飴を舐めていた記憶、

ずっと誰にも見つけてもらえなかった涙。

その全てが、スイの中に沈み、形を持たずに疼いていた。


 


傍らで、セナが座っていた。

背を丸め、肩にかけた外套が泥に濡れていた。

血の跡はすでに乾いていたが、彼女の指はまだ震えていた。


 


泣いていた。

声も上げず、ただ、唇を噛み、涙だけを流していた。


 


それでも、それさえも――どこか赦されていないような、

そんな空気が、この廃墟には満ちていた。


 


セナの目は、何度も、スイの胸元へ向けられていた。

彼の中にいる“子どもたち”が、今も微かに呼吸していることを、彼女は知っていた。


 


スイは、動かなかった。

けれど、胸の内で、確かに彼らの“重さ”を感じていた。


 


名も知らず、声も届かず、

それでも、確かに存在していた子どもたちが、

今、ようやく“消えずに済んだ”という事実だけを、静かに抱きしめていた。


 


何も語らなかった。

語る言葉すら、もう残っていなかった。


 


ただ、ふたりはそこにいた。

誰も知らないまま、救えなかった命の傍で。

誰にも見つけられなかった場所で、

小さな祈りの余韻だけを、抱えながら。


 


世界は、何も変わっていなかった。

それでも、彼らだけは、確かに変わっていた。


 


沈黙の中で、セナが、そっと目を閉じた。


 


――それは、誰にも聞こえない、小さな祈りだった。




 


「……私たちは、何も救えなかった」


セナの声は、すでに涙のあとを乾かしていた。

目は伏せたまま、けれど瞳はにじんでいなかった。

泣くことすら赦されない世界に、いつの間にか順応してしまっていた。


 


スイは答えなかった。

代わりに、胸の奥でわずかに響く“音”だけを感じていた。

武器化された子どもたちの魂が、そこに眠っている。

戦わせていない。ただ、声も名も与えずに、静かにそこに“いさせている”。


 


「でも……名前は、消さなかった」


セナが、ぽつりと呟いた。

その声だけが、この夜の中で唯一、灯火のように小さく灯っていた。


 


虚還ノ縫――

彼女の背で静かに眠っているその鎌が、かすかに震えた。

刃の奥から、鈍く、淡い光がにじみ始めていた。


重さが変わっていた。

暴れようとしていた力が、今は、ただ静かに呼吸していた。

誰かを傷つけるためではなく、

誰かを忘れないために――魂の形が、変わり始めていた。


 


スイの背にも、もう一つの気配があった。

幾重にも折り重なった刃の感触。

それは、喰らうための牙ではなかった。

胸の奥に宿った音が、守るための律動に変わっていく。


それはまだ、確かな形ではない。

けれど、彼自身の魂が、何かを“拒まない刃”に変わろうとしているのを、彼は感じていた。


 


その夜、ふたりは廃墟の外に出た。


崩れた石壁の一角に、黙って、石を拾い集めた。

掌に収まるほどの、汚れた瓦礫のかけら。

泥のついたそれを、ひとつ、またひとつと積み上げていく。


誰のものと定めることもなく。

誰の名前も書かれないまま。


けれど、その石たちは、確かにそこにいた“子どもたち”のために積まれていった。

骨も、記録も、存在すら残らなかった命のために。


 


セナが、無言で石を置く手を止めた。

少しだけ、背を震わせていた。

それでも彼女は、涙を落とさなかった。

誰も赦してはくれないと、最初から知っている目をしていた。


 


スイは、積まれた石の前に膝をついた。

風が吹いた。夜の空気が、冷たく皮膚に貼りつく。


その中で、彼は静かに、心の内で語った。


 


 (名も、姿も、語る者すらいない。

  それでも――確かに生きて、消えた命があった)


 


それだけが、彼の中に残ったすべてだった。


 


石の山は、小さく、歪だった。

誰も通らない場所に積まれ、誰にも見つけられないまま朽ちていくだろう。

けれど、それでも。


彼らは、確かに“ここにいた”。


 


何も変えられなかった。

救えもしなかった。

けれど、忘れなかった。


 


夜は深く沈んでいた。

風が吹き抜け、灰色の空を舐めるように過ぎていった。

世界は、変わらない。

でも、ふたりの中には、確かに――何かが変わり始めていた。


 


その夜が、静かに終わる頃。

遠くから、“次の戦火の足音”が、わずかに近づいてくる音がした。


 


それは、世界が動き出す前の、最期の静寂だった。

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