名前を刻む、最初の嘘:2
ギルドを出た頃には、すっかり陽が落ちかけていた。
ミレイダの街路は、夕暮れの影に沈み、煉瓦の隙間から漏れる灯りが、歪んだ光の筋を路面に落としていた。
人の数は多かった。
露天商、行き交う労働者、すすけた顔の子どもたち。
だが、誰一人、スイとセナを気に留める者はいなかった。
それは――彼らが、この町では“無名の存在”にすぎないことを、嫌というほど思い知らせた。
背を丸め、スイは歩いた。
セナもまた、静かに隣をついてきた。
ギルドの職員からはこう告げられていた。
――正式な登録番号が発行されるのは翌日。
――今日は“仮登録”扱い。
――ギルドカードを受け取るまでは、町の外で活動できない。
つまり、今夜はただ、身を潜めて待つしかなかった。
スイたちは町の奥へと歩いた。
坂を下り、門の近くに戻るようにして、人気の薄い一角へ。
そこは、崩れかけた倉庫や壊れた屋根の家が立ち並ぶ、いわゆる“貧民街”だった。
人の目が少なく、夜になると巡回兵も滅多に来ない。
子どもたちが焚き火を囲み、静かに息を潜めて暮らしている。
言葉は少なく、目線だけがすべてを測っている世界。
空き地の片隅――瓦礫に囲まれた、雑草の広がる場所に、スイたちは腰を下ろした。
倒れかけた壁の影、誰も寄りつかない一角。
セナは毛布を広げ、そっと腰を下ろした。
スイも隣に座り、剣を膝に抱えた。
夜風が吹き抜ける。
冷たく、埃っぽい風。
鼻を突く匂いは、焼け焦げた薪と、果てた命の匂いだった。
焚き火もない。ただ、空の下で息を潜めるだけだった。
「……怖くない?」
小さな声で、セナが訊いた。
スイは、首を横に振った。
「慣れてる」
それは半分だけ本当だった。
孤児院の夜とは違う。ここは、何が起きてもおかしくない。
だが、彼女の隣でなら――今夜も、歩き続けられる気がした。
セナは、スイに毛布を半分押しやった。
ふたりで、ひとつの布を肩に掛ける。
冷たかった背中が、少しだけ温かくなった。
夜は長かった。
だが、誰にも見られずに終えられた。
それだけで、今夜は“勝利”だった。
*
翌朝、町に陽が昇った。
光は鈍く、湿った雲の隙間から、町を濁した色に染め上げる。
ふたりは早朝の通りを抜け、ギルドへ向かった。
まだ屋台も開いていない時間。
石畳を踏みしめる音だけが、世界に浮かんでいた。
ギルドの前に着くと、鉄製の扉が開き、簡素な受付が顔を出した。
昨日とは違う職員――痩せた男が、無表情に書類を差し出す。
「登録番号、提示」
スイは懐から紙片を取り出した。
昨日、仮登録の際に手渡されたもの。
そこに記されていたのは、短い数字列と、二人の仮名。
「カンノ・スイ」
「セナ」
職員は紙片を確認し、無造作に引き取った。
そして、代わりに小さな金属板を差し出した。
手のひらに収まる、銀色の“ギルドカード”。
名前、登録番号、そして簡易な身分情報が打刻されている。
それだけ。
本物の存在証明などではない。
けれど、この町では――これが、“存在を認められる最低限”だった。
「以上。登録完了。仕事は掲示板より自由選択」
「なお、未熟者向けの依頼は、階層別に色分けされている。初期は“灰色”のみ」
事務的な説明を聞き流し、スイはカードを胸元に収めた。
セナも、ぎこちなく同じようにしていた。
これで、町の中では堂々と動ける。
誰にも疑われずに、生きていける。
少なくとも、表面上は。
ふたりはギルドの広間へ進んだ。
石造りの壁。掲げられた依頼板。
そこには、膨大な数の依頼書が貼られていた。
「……どれにする?」
セナが小声で訊いた。
スイは、迷いなく一枚を選んだ。
【郊外の山林で発生している“異形体”の討伐】
――ただし、依頼文には“ノーネーム”などという呼び名は書かれていない。
“魔獣”とだけ、曖昧に記されている。
(きっと、あれだ)
昨夜、森で戦ったあれと同じ。
誰も、名前を与えられなかった存在。
スイは依頼を剥がし、受付へ持っていった。
職員はちらと見ただけで、無言で受理の印を押した。
「集合は、今夜。南門前、日没後」
それだけを告げ、また無表情に業務へ戻る。
(夜……か)
ふたりで頷き合い、ギルドを後にした。
外に出ると、町の空気はざわめいていた。
市場に人が溢れ、匂いと音と、無数の視線が混ざり合う。
その中で、ふたりの影は、なおさら小さく見えた。
だが、確かに存在していた。
広場を歩くと、ふと、声をかけられた。
「おう、新入りか?」
振り向くと、粗末な鎧を着た少年が、にやりと笑って立っていた。
同じ年頃か、少し上か。
腰には刃こぼれした剣。腕には、ギルドのカードが巻かれている。
「初依頼だろ? 俺たちと組むか?」
少年の後ろには、仲間らしい二人が控えていた。
粗野な笑い。だが、それは悪意ではなかった。
多少の侮蔑と、多少の好奇心と――あとはただ、世界の厳しさを知る者たちの視線だった。
スイは、一瞬だけ迷った。
だが、首を横に振った。
「……ありがとう。でも、ふたりで行く」
少年は肩をすくめた。
「まあ、せいぜい死ぬなよ」
軽口を叩き、仲間たちと去っていった。
セナが、小さく言った。
「……怖かった?」
「ううん。……でも、ちょっと、悔しかった」
「うん。わかる」
ふたりは、静かに笑った。
少しだけ、心が軽くなった。
日が傾き始める。
空の色が鈍く変わる。
やがて、夜が来る。
そして、最初の“戦場”が――彼らを待っていた。
(行こう)
心の中で呟く。
誰かのためでも、何かのためでもない。
自分自身のために。
名を守るために。
南門へ向かう道を、スイとセナは並んで歩き出した。
町の喧騒の向こうに、夜の闇が静かに待っていた。
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