名前を刻む、最初の嘘:2


ギルドを出た頃には、すっかり陽が落ちかけていた。


ミレイダの街路は、夕暮れの影に沈み、煉瓦の隙間から漏れる灯りが、歪んだ光の筋を路面に落としていた。


 


人の数は多かった。


露天商、行き交う労働者、すすけた顔の子どもたち。


だが、誰一人、スイとセナを気に留める者はいなかった。


それは――彼らが、この町では“無名の存在”にすぎないことを、嫌というほど思い知らせた。


 


背を丸め、スイは歩いた。


セナもまた、静かに隣をついてきた。


ギルドの職員からはこう告げられていた。


 


――正式な登録番号が発行されるのは翌日。


――今日は“仮登録”扱い。


――ギルドカードを受け取るまでは、町の外で活動できない。


 


つまり、今夜はただ、身を潜めて待つしかなかった。


 


スイたちは町の奥へと歩いた。


坂を下り、門の近くに戻るようにして、人気の薄い一角へ。


 


そこは、崩れかけた倉庫や壊れた屋根の家が立ち並ぶ、いわゆる“貧民街”だった。


 


人の目が少なく、夜になると巡回兵も滅多に来ない。


子どもたちが焚き火を囲み、静かに息を潜めて暮らしている。


言葉は少なく、目線だけがすべてを測っている世界。


 


空き地の片隅――瓦礫に囲まれた、雑草の広がる場所に、スイたちは腰を下ろした。


倒れかけた壁の影、誰も寄りつかない一角。


 


セナは毛布を広げ、そっと腰を下ろした。


スイも隣に座り、剣を膝に抱えた。


 


夜風が吹き抜ける。


冷たく、埃っぽい風。


鼻を突く匂いは、焼け焦げた薪と、果てた命の匂いだった。


 


焚き火もない。ただ、空の下で息を潜めるだけだった。


 


「……怖くない?」


小さな声で、セナが訊いた。


スイは、首を横に振った。


 


「慣れてる」


それは半分だけ本当だった。


孤児院の夜とは違う。ここは、何が起きてもおかしくない。


 


だが、彼女の隣でなら――今夜も、歩き続けられる気がした。


 


セナは、スイに毛布を半分押しやった。


ふたりで、ひとつの布を肩に掛ける。


冷たかった背中が、少しだけ温かくなった。


 


夜は長かった。


だが、誰にも見られずに終えられた。


それだけで、今夜は“勝利”だった。


 


 



 


翌朝、町に陽が昇った。


光は鈍く、湿った雲の隙間から、町を濁した色に染め上げる。


 


ふたりは早朝の通りを抜け、ギルドへ向かった。


まだ屋台も開いていない時間。


石畳を踏みしめる音だけが、世界に浮かんでいた。


 


ギルドの前に着くと、鉄製の扉が開き、簡素な受付が顔を出した。


昨日とは違う職員――痩せた男が、無表情に書類を差し出す。


 


「登録番号、提示」


 


スイは懐から紙片を取り出した。


昨日、仮登録の際に手渡されたもの。


そこに記されていたのは、短い数字列と、二人の仮名。


 


「カンノ・スイ」


「セナ」


 


職員は紙片を確認し、無造作に引き取った。


そして、代わりに小さな金属板を差し出した。


手のひらに収まる、銀色の“ギルドカード”。


 


名前、登録番号、そして簡易な身分情報が打刻されている。


それだけ。


本物の存在証明などではない。


けれど、この町では――これが、“存在を認められる最低限”だった。


 


「以上。登録完了。仕事は掲示板より自由選択」


「なお、未熟者向けの依頼は、階層別に色分けされている。初期は“灰色”のみ」


事務的な説明を聞き流し、スイはカードを胸元に収めた。


セナも、ぎこちなく同じようにしていた。


 


これで、町の中では堂々と動ける。


誰にも疑われずに、生きていける。


少なくとも、表面上は。


 


ふたりはギルドの広間へ進んだ。


石造りの壁。掲げられた依頼板。


そこには、膨大な数の依頼書が貼られていた。


 


「……どれにする?」


セナが小声で訊いた。


 


スイは、迷いなく一枚を選んだ。


 


【郊外の山林で発生している“異形体”の討伐】


――ただし、依頼文には“ノーネーム”などという呼び名は書かれていない。


“魔獣”とだけ、曖昧に記されている。


 


(きっと、あれだ)


昨夜、森で戦ったあれと同じ。


誰も、名前を与えられなかった存在。


 


スイは依頼を剥がし、受付へ持っていった。


職員はちらと見ただけで、無言で受理の印を押した。


 


「集合は、今夜。南門前、日没後」


それだけを告げ、また無表情に業務へ戻る。


 


(夜……か)


ふたりで頷き合い、ギルドを後にした。


 


外に出ると、町の空気はざわめいていた。


市場に人が溢れ、匂いと音と、無数の視線が混ざり合う。


 


その中で、ふたりの影は、なおさら小さく見えた。


だが、確かに存在していた。


 


広場を歩くと、ふと、声をかけられた。


 


「おう、新入りか?」


振り向くと、粗末な鎧を着た少年が、にやりと笑って立っていた。


同じ年頃か、少し上か。


腰には刃こぼれした剣。腕には、ギルドのカードが巻かれている。


 


「初依頼だろ? 俺たちと組むか?」


少年の後ろには、仲間らしい二人が控えていた。


粗野な笑い。だが、それは悪意ではなかった。


多少の侮蔑と、多少の好奇心と――あとはただ、世界の厳しさを知る者たちの視線だった。


 


スイは、一瞬だけ迷った。


だが、首を横に振った。


 


「……ありがとう。でも、ふたりで行く」


 


少年は肩をすくめた。


「まあ、せいぜい死ぬなよ」


軽口を叩き、仲間たちと去っていった。


 


セナが、小さく言った。


「……怖かった?」


「ううん。……でも、ちょっと、悔しかった」


「うん。わかる」


ふたりは、静かに笑った。


少しだけ、心が軽くなった。


 


日が傾き始める。


空の色が鈍く変わる。


やがて、夜が来る。


そして、最初の“戦場”が――彼らを待っていた。


 


(行こう)


心の中で呟く。


誰かのためでも、何かのためでもない。


自分自身のために。


名を守るために。


 


南門へ向かう道を、スイとセナは並んで歩き出した。


 


町の喧騒の向こうに、夜の闇が静かに待っていた。


 

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