名無き夜に、名を刻む:2
セナが、駆け寄ってくる。
「……大丈夫? 怪我は……」
スイは、小さく頷く。
疲れて、声が出なかった。
でも、今の彼にとっては――その“頷き”がすべてだった。
その夜。
誰にも名前を呼ばれなかった存在を、スイは葬った。
戦いの方法も知らず、ただ“魂に刻まれた記憶”に導かれて。
それが、この世界の最初の夜。
そして、“本当の戦い”の始まりだった。
*
叫び声ひとつ上げる暇もなかった。
夜の森に、黒い影が集まっていく。
音に引かれて現れた“ノーネーム”たち――
その数、十を超えていた。
木立の間をすり抜け、地を這い、天井から逆さに落ちてくる者までいた。
(数が……多すぎる!)
スイは、思わず後退る。
ティナの矢は確かに必中だった。けれど――数には追いつけない。
この夜に潜む者たちは、かつて“名前を持たなかった”魂の成れの果て。
叫ぶでもなく、唸るでもなく、ただ生きているものを喰らうためだけに這い寄ってくる。
セナは、焚き火の傍で震えていた。
その目は恐怖に染まりながらも、スイの背を見つめていた。
(絶対に、守る――!)
スイの背に、武器の輪が浮かび上がる。
カイの剣が収まり、次の武器が呼び出された。
「――ユマ!」
手のひらから放たれる、綴環ノ糸(テイカンノイト)。
光る糸がしなやかに空を駆け、一体のノーネームの関節と喉元を絡め取る。
そのまま木の枝に縫い付けるように吊るし上げ、身動きを封じた。
次に、スイは足元を蹴った。
「――ノア!」
腰の横で、回転する輪が現れる。
響幻ノ輪(キョウゲンノワ)――双輪が空を斬り、唸るような軌道で飛んだ。
直線に並んだ二体のノーネームの頭を、斜めに切り裂いて貫く。
内側から破裂するような音がして、黒い液体が飛び散る。
そこに、もう一体が横から飛びかかってきた。
(間に合わない――!)
だが、次の瞬間。
右手にずしりとした重さが宿る。
「――リク!」
**真砕ノ槌(シンサイノツチ)**が出現する。
スイは振り返りざま、全身の回転とともにそれを振り抜いた。
地鳴りのような衝撃。
空気ごと敵を潰すような一撃で、ノーネームはぐしゃりと音を立てて、潰えた。
砕けたのは骨か、意志か。
わからない。
ただ、赤黒い肉塊が地に転がる。
スイの腕が、震える。
呼吸が、荒れる。
(……体が、持たない)
武器が身体の限界を超えてくる。
あまりの重さ、反動、魂への負荷。
どれも“普通の子ども”には扱えないはずだった。
それでも、止まれなかった。
セナの方へ、また一体が回り込んでいる――!
スイは、叫ぶ。
「――メイ!!」
杖が現れた。
紡光ノ杖(ボウコウノジョウ)。
その先端に、ふわりと光の粒が浮かぶ。
スイが意識を向けた瞬間、熱が指先から放たれる。
雷撃のような魔法が、敵の背中を貫いた。
(魔法……使える……!?)
火の粉のように、敵が崩れ落ちる。
焼けた皮膚の匂い。焦げた肉の煙。
スイは歯を食いしばる。
魔法なんて知らなかった。
でも、“メイの想い”が、杖の中に宿っていた。
(ありがとう……)
だが――止まらない。
影は、まだあと五体以上。
すでに体力も、集中力も限界を超えていた。
脳の奥が熱い。胸が苦しい。吐き気がこみ上げる。
でも、それでも――
スイは、叫ぶ。
「――エナッ!!」
現れたのは、燈祈ノ標(トウキノシルベ)。
多節の蛇腹剣。
それは地を這うようにしなり、スイの腕の動きに応じて無数の刃がうねりながら躍動した。
一閃。
二閃。
三閃。
斬って、裂いて、絡め取って、斬る。
その軌道は、獲物を逃さぬ祈りの軌道だった。
もう一体。
スイは振り返ると、最後のノーネームが焚き火に向かって突進していた。
セナの方へ――!
瞬間、スイの背に冷たい風が吹いた。
「――ナギ……!」
出現したのは、封瞳ノ環(フウトウノワ)。
大きな鉄扇。
スイはその扇を一気に開くと、風圧と共に宙を裂くように叩き込んだ。
ノーネームの身体が、音もなく宙に跳ね、脊椎ごと折れて地面に落ちた。
静寂が戻る。
地には、黒い液体が広がっていた。
刃に付いた血が、じりじりと焼け落ちていく。
森の気配が、ようやく収束する。
スイはその場に膝をついた。
喉が焼けるように乾いていた。
身体が重い。
肺が悲鳴を上げていた。
それでも、セナは無事だった。
スイの背に、武器の輪が静かに戻っていく。
あの子たちの魂は、また沈黙の中に還っていく。
(守った……)
そう思った瞬間、視界がぐらついた。
「……スイくん!」
駆け寄る声。
倒れそうになる身体を、セナが支える。
その体温が、涙が、言葉よりも早く届いた。
夜はまだ終わらない。
でも――
名を奪われた子どもたちの魂が、今もこの手で生きている。
そう信じた。
次の夜も、その次の夜も。
きっと、この戦いは、終わらない。
けれど、それでも。
僕は、歩き続ける。
“名前”を、記すために。
*
火はまだ消えていなかった。
けれど、燃え尽きるのも時間の問題だった。
薪の端は炭になりかけ、赤い芯だけが夜の空気をわずかに照らしている。
そのそばで、スイはひざまずいたまま、動けずにいた。
右手の手袋は破れ、指先には血が滲んでいた。
肩で息をしている。息は浅く、熱い。脈が速すぎて、自分の鼓動がうるさい。
汗と土と血と、焼けた魔物の臭いが、夜に重く溶け込んでいた。
剣はまだ手にあった。力が抜けずに、ずっと握ったままだった。
刃の根元、“Kai”の文字が、赤く、光の残滓を吸っていた。
足音が近づく。
崩れるように、セナが隣に膝をついた。
彼女の息も荒かった。怖さに。焦りに。今にも崩れてしまいそうな不安に。
けれどその手は、震えながらもスイの肩に触れた。
そっと、力をこめて。
「スイくん……!」
呼ぶ声が震えていた。
でも、その手のひらは、ちゃんと温かかった。
「ごめん……僕……」
「謝らないで」
遮ったセナの声は、震えていなかった。
呼吸は乱れていても、声はまっすぐだった。
「こんなに血だらけで、……これが、君の戦い方だったの?」
「君、ひとりで……こんな、ひどい力を……全部……」
スイは、かすかに首を振った。
でも、何も言葉にできなかった。
唇が震えて、喉が詰まって、ただ、息を吐く音だけがもれた。
「……僕は」
それでも、無理に声を押し出した。
「名前を、守りたかったんだ」
「名前を失った子たちの代わりに、生きてる“意味”が欲しかった」
「誰かに、奪われたまま終わってほしくなかった」
「だけど……僕がやってることは、本当に、それでいいのか……わからなくなって……」
最後の言葉は、熱にとろけて、涙と混ざった。
肩が落ちる。首が垂れる。
世界が遠ざかっていく。
その時、セナが額に手を当ててきた。
そっと、静かに。まるで熱を測るように。
その指先が、汗を拭う。
なにも言わないまま、彼女はしばらくそうしていた。
「……ありがとう」
それだけだった。
けれど、その声に、何もかもが詰まっていた。
感情も、痛みも、重さも、すべてを受け止めるような言葉だった。
「生きてくれて、ありがとう」
その一言に、スイの背中が揺れた。
目を伏せたまま、震える声で、かすれた呼吸を押し出す。
涙が、土に落ちた。
音はなかった。
でも、その一滴は、刃よりも鋭く、痛かった。
セナが、そっと身体を寄せてきた。
肩を預けるのではなかった。
守られるのではなかった。
ただ、“隣にいる”という選択を、身体で伝えてきた。
火が、ぱち、と跳ねた。
ふたりの影が、重なるように揺れた。
誰の声も届かないこの夜に、確かに“ひとつの名前”が存在していた。
スイは、そっと目を閉じた。
誰の名前も失われないように。
たとえこの身が呪われていたとしても。
明日もまた、この手で――名前を守るために、戦う。
その夜は、誰の記憶にも刻まれず、
ただひとつの祈りを風に残して――
静かに、終わった。
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