名無き夜に、名を刻む:2

セナが、駆け寄ってくる。


「……大丈夫? 怪我は……」


スイは、小さく頷く。


疲れて、声が出なかった。


でも、今の彼にとっては――その“頷き”がすべてだった。


 


その夜。


誰にも名前を呼ばれなかった存在を、スイは葬った。


戦いの方法も知らず、ただ“魂に刻まれた記憶”に導かれて。


 


それが、この世界の最初の夜。


そして、“本当の戦い”の始まりだった。



 


叫び声ひとつ上げる暇もなかった。


 


夜の森に、黒い影が集まっていく。


音に引かれて現れた“ノーネーム”たち――


その数、十を超えていた。


木立の間をすり抜け、地を這い、天井から逆さに落ちてくる者までいた。


 


(数が……多すぎる!)


 


スイは、思わず後退る。


ティナの矢は確かに必中だった。けれど――数には追いつけない。


この夜に潜む者たちは、かつて“名前を持たなかった”魂の成れの果て。


叫ぶでもなく、唸るでもなく、ただ生きているものを喰らうためだけに這い寄ってくる。


 


セナは、焚き火の傍で震えていた。


その目は恐怖に染まりながらも、スイの背を見つめていた。


 


(絶対に、守る――!)


 


スイの背に、武器の輪が浮かび上がる。


カイの剣が収まり、次の武器が呼び出された。


 


「――ユマ!」


 


手のひらから放たれる、綴環ノ糸(テイカンノイト)。


光る糸がしなやかに空を駆け、一体のノーネームの関節と喉元を絡め取る。


そのまま木の枝に縫い付けるように吊るし上げ、身動きを封じた。


 


次に、スイは足元を蹴った。


 


「――ノア!」


 


腰の横で、回転する輪が現れる。


響幻ノ輪(キョウゲンノワ)――双輪が空を斬り、唸るような軌道で飛んだ。


直線に並んだ二体のノーネームの頭を、斜めに切り裂いて貫く。


内側から破裂するような音がして、黒い液体が飛び散る。


 


そこに、もう一体が横から飛びかかってきた。


 


(間に合わない――!)


 


だが、次の瞬間。


右手にずしりとした重さが宿る。


 


「――リク!」


 


**真砕ノ槌(シンサイノツチ)**が出現する。


スイは振り返りざま、全身の回転とともにそれを振り抜いた。


地鳴りのような衝撃。


空気ごと敵を潰すような一撃で、ノーネームはぐしゃりと音を立てて、潰えた。


 


砕けたのは骨か、意志か。


わからない。


ただ、赤黒い肉塊が地に転がる。


スイの腕が、震える。


呼吸が、荒れる。


 


(……体が、持たない)


 


武器が身体の限界を超えてくる。


あまりの重さ、反動、魂への負荷。


どれも“普通の子ども”には扱えないはずだった。


それでも、止まれなかった。


セナの方へ、また一体が回り込んでいる――!


 


スイは、叫ぶ。


 


「――メイ!!」


 


杖が現れた。


紡光ノ杖(ボウコウノジョウ)。


その先端に、ふわりと光の粒が浮かぶ。


スイが意識を向けた瞬間、熱が指先から放たれる。


雷撃のような魔法が、敵の背中を貫いた。


 


(魔法……使える……!?)


 


火の粉のように、敵が崩れ落ちる。


焼けた皮膚の匂い。焦げた肉の煙。


スイは歯を食いしばる。


魔法なんて知らなかった。


でも、“メイの想い”が、杖の中に宿っていた。


 


(ありがとう……)


 


だが――止まらない。


影は、まだあと五体以上。


すでに体力も、集中力も限界を超えていた。


脳の奥が熱い。胸が苦しい。吐き気がこみ上げる。


でも、それでも――


 


スイは、叫ぶ。


 


「――エナッ!!」


 


現れたのは、燈祈ノ標(トウキノシルベ)。


多節の蛇腹剣。


それは地を這うようにしなり、スイの腕の動きに応じて無数の刃がうねりながら躍動した。


一閃。


二閃。


三閃。


斬って、裂いて、絡め取って、斬る。


その軌道は、獲物を逃さぬ祈りの軌道だった。


 


もう一体。


スイは振り返ると、最後のノーネームが焚き火に向かって突進していた。


 


セナの方へ――!


 


瞬間、スイの背に冷たい風が吹いた。


 


「――ナギ……!」


 


出現したのは、封瞳ノ環(フウトウノワ)。


大きな鉄扇。


スイはその扇を一気に開くと、風圧と共に宙を裂くように叩き込んだ。


ノーネームの身体が、音もなく宙に跳ね、脊椎ごと折れて地面に落ちた。


 


静寂が戻る。


 


地には、黒い液体が広がっていた。


刃に付いた血が、じりじりと焼け落ちていく。


森の気配が、ようやく収束する。


スイはその場に膝をついた。


喉が焼けるように乾いていた。


身体が重い。


肺が悲鳴を上げていた。


 


それでも、セナは無事だった。


スイの背に、武器の輪が静かに戻っていく。


あの子たちの魂は、また沈黙の中に還っていく。


 


(守った……)


そう思った瞬間、視界がぐらついた。


 


「……スイくん!」


駆け寄る声。


倒れそうになる身体を、セナが支える。


その体温が、涙が、言葉よりも早く届いた。


 


夜はまだ終わらない。


でも――


名を奪われた子どもたちの魂が、今もこの手で生きている。


そう信じた。


 


次の夜も、その次の夜も。


きっと、この戦いは、終わらない。


けれど、それでも。


 


僕は、歩き続ける。


“名前”を、記すために。


 


火はまだ消えていなかった。


けれど、燃え尽きるのも時間の問題だった。


薪の端は炭になりかけ、赤い芯だけが夜の空気をわずかに照らしている。


そのそばで、スイはひざまずいたまま、動けずにいた。


右手の手袋は破れ、指先には血が滲んでいた。


肩で息をしている。息は浅く、熱い。脈が速すぎて、自分の鼓動がうるさい。


汗と土と血と、焼けた魔物の臭いが、夜に重く溶け込んでいた。


剣はまだ手にあった。力が抜けずに、ずっと握ったままだった。


刃の根元、“Kai”の文字が、赤く、光の残滓を吸っていた。


 


足音が近づく。


崩れるように、セナが隣に膝をついた。


彼女の息も荒かった。怖さに。焦りに。今にも崩れてしまいそうな不安に。


けれどその手は、震えながらもスイの肩に触れた。


そっと、力をこめて。


 


「スイくん……!」


呼ぶ声が震えていた。


でも、その手のひらは、ちゃんと温かかった。


 


「ごめん……僕……」


「謝らないで」


遮ったセナの声は、震えていなかった。


呼吸は乱れていても、声はまっすぐだった。


 


「こんなに血だらけで、……これが、君の戦い方だったの?」


「君、ひとりで……こんな、ひどい力を……全部……」


スイは、かすかに首を振った。


でも、何も言葉にできなかった。


唇が震えて、喉が詰まって、ただ、息を吐く音だけがもれた。


 


「……僕は」


それでも、無理に声を押し出した。


「名前を、守りたかったんだ」


「名前を失った子たちの代わりに、生きてる“意味”が欲しかった」


「誰かに、奪われたまま終わってほしくなかった」


「だけど……僕がやってることは、本当に、それでいいのか……わからなくなって……」


最後の言葉は、熱にとろけて、涙と混ざった。


肩が落ちる。首が垂れる。


世界が遠ざかっていく。


 


その時、セナが額に手を当ててきた。


そっと、静かに。まるで熱を測るように。


その指先が、汗を拭う。


なにも言わないまま、彼女はしばらくそうしていた。


 


「……ありがとう」


それだけだった。


けれど、その声に、何もかもが詰まっていた。


感情も、痛みも、重さも、すべてを受け止めるような言葉だった。


 


「生きてくれて、ありがとう」


その一言に、スイの背中が揺れた。


目を伏せたまま、震える声で、かすれた呼吸を押し出す。


涙が、土に落ちた。


音はなかった。


でも、その一滴は、刃よりも鋭く、痛かった。


 


セナが、そっと身体を寄せてきた。


肩を預けるのではなかった。


守られるのではなかった。


ただ、“隣にいる”という選択を、身体で伝えてきた。


 


火が、ぱち、と跳ねた。


ふたりの影が、重なるように揺れた。


誰の声も届かないこの夜に、確かに“ひとつの名前”が存在していた。


スイは、そっと目を閉じた。


誰の名前も失われないように。


たとえこの身が呪われていたとしても。


明日もまた、この手で――名前を守るために、戦う。


 


その夜は、誰の記憶にも刻まれず、

ただひとつの祈りを風に残して――

静かに、終わった。

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