縫い留められた名前:2



朝の陽ざしは、昨日よりも少しだけやさしかった。

空に浮かぶ雲は薄く、風は涼やかで、窓の隙間から入り込む光が、床に長く伸びている。


孤児院の一日は、いつもゆっくりと始まる。


部屋の隅で眠そうに欠伸をするティナと、静かに本を閉じるリク。

みんなが少しずつ起きて、顔を洗い、パンの焼ける匂いに誘われて食堂へ向かう。


そんな、何気ない朝の時間。


でも――

その空気に、今日はどこかほんの少し、ざわつく気配があった。


「……あれ? ユマのぬいぐるみ、ない……」


食事のあと、子どもたちが中庭に出たとき。

ティナにくっついて歩いていたユマが、急に足を止めてそう呟いた。


「昨日、ここに置いたの。日向ぼっこさせてたのに……」


ユマは八歳。まだ小さくて、よくティナの服の裾を掴んでいる。

そのぬいぐるみ――名前は「ルルちゃん」――は、ユマが自分で作ったものだった。


見た目はちょっと不格好なうさぎで、耳の長さが左右で違っていたけれど、

縫い目を何度も直した跡があって、きっと、とても大切なものだったのだと思う。


「ねぇ、誰か知らない? ユマのぬいぐるみ、どこ行ったの?」


ティナが声を上げる。最初は柔らかい声だった。


けれど、子どもたちが少しずつ「知らない」と首を振りはじめると、

その空気は少しずつ、重たくなっていった。


「……ほんとに誰も見てないの?」


「知らないってば。ボクは遊んでただけだもん」

口を尖らせたのは、十一歳のカイ。気が強いけれど、どこか臆病なところがある子だ。


そのすぐ隣で、木の根元に座っていたノアが、のんびりと口を開く。


「んー……昨日の夕方まではあったよ。夕陽のところで寝てた」


「それって、ノアが最後に見たってこと?」


「……かも。よく覚えてないけど」


ノアは九歳。空想好きで、よく一人で何かを見上げている。

その言葉に、また一瞬、沈黙が落ちた。


「誰かが、勝手に持ってったんじゃ……」


そう呟いたのは、十二歳のメイだった。

周囲をよく見ているしっかり者で、院長先生の手伝いもよくする。


その一言が、空気にさざ波を立てた。


「えっ、じゃあ……誰かが、隠したの?」

「なんでそんなこと……」

「ううん、きっと間違えて持ってっただけだよ」


言葉が、言葉を追い越す。


誰も声を荒らげてはいなかった。

けれど、その“ざわめき”が、確かに子どもたちの輪に染みていく。


ユマは不安そうにティナの後ろに隠れていた。

その目に浮かんでいたのは、怒りでも悲しみでもなく、ただ――

「どうしよう」

という、心細さだった。



「……ユマ、落ち着いて」


僕は思わず、そっと彼女の前にしゃがみ込んでいた。


「大丈夫、きっと見つかるよ。……一緒に探そう」


自分でも、どうしてそんな言葉が出たのか分からなかった。

でも、その瞬間――誰かのために動きたいと、自然に思えたのだ。


僕の声に、ティナとリクも頷く。


「そうだよ、スイくんが言うなら、きっと見つかるよ」

「広場のほう、僕が見てくる」

「私、倉庫の裏、探してみる!」


小さな輪が、少しずつ動きはじめる。


誰かの“名前”が呼ばれること――

それは、守られるべき何かが、そこにあるということ。


そのことを、僕はまだ知らないままに、

けれど確かに、その中心に立ちはじめていた。



中庭を出て、風の通る回廊を抜け、

僕たちは三つの方向に分かれて、手がかりを探しはじめた。


ティナとユマは花壇のある裏庭へ、

リクは倉庫の裏手へ。

そして僕は、昨日みんなで遊んでいた広場の方へ向かった。


石畳に陽が落ち、葉の影が揺れる。

どこかで木の葉が擦れ合う音がして、それが少しだけ胸をざわつかせた。


(見つかるといいけど……)


ぬいぐるみなんて、

壊れてしまっていたら――

誰かが捨ててしまっていたら――


そんなことを思いかけたとき。


「……あれ?」


広場の隅。木陰の下に置かれたベンチの横に、何かが干されていた。


色褪せた布地。長い耳。縫い目のほつれ――


「……ルルちゃん……?」


思わず、名前を呼んでしまった。


それは間違いなく、ユマが抱えていた、あのうさぎのぬいぐるみだった。


洗いたてのタオルと一緒に、紐で吊るされて干されている。

日差しを浴びて、少しだけふくらんで見えた。


その隣に、背を向けてしゃがんでいたのは――


「……カイ?」


振り向いたその子は、バツが悪そうな顔で、僕を見上げた。


「……ごめん。捨てたんじゃないんだ。洗おうと思って……」


話を聞けば、こうだった。


昨日の夕方、カイは偶然ルルちゃんを見つけた。

地面に落ちていて、汚れているのが気になったのだという。


「ユマってさ、あれをすごく大事にしてるじゃん。

だから……汚れてるの見つけて、“キレイにしてから返そう”って思ったんだ」


でも、タイミングを逃して言い出せず、

気づけば今日になってしまった。

そしてその間に、ユマが泣き出してしまった。


「……バカだよね、僕」


カイはそう言って、ぬいぐるみに触れなかった手を、そっと拳に握った。



「……でも、それって、悪いことじゃないと思うよ」


僕はゆっくりと、ルルちゃんを見つめながら言った。


「ユマのこと、ちゃんと見ててくれたってことでしょ。

すごく、大切にされてるなって、思ったよ」


「でも、泣かせちゃった……」


「だったら――今から返そう? 一緒に」


カイはしばらく黙って、それから、ほんの少しだけ頷いた。


戻る途中、彼はぎこちない手つきで、ぬいぐるみを大切そうに抱えていた。


僕は、その横顔をちらりと見る。


誰かの“ために”動いたことで、

その人を“傷つけるかもしれない”と気づいた瞬間――

それは、きっと彼が“誰かを思えるようになった”証なんだと思った。


「……あっ!」


中庭に戻ると、ユマが真っ先に駆け寄ってきた。


そしてその目が、ルルちゃんを見つけた瞬間、ぱあっと明るくなった。


「ルルちゃん! よかった……!」


ぬいぐるみを受け取ったユマは、ぎゅっと抱きしめて、涙ぐみながら言った。


「ありがとう、スイくん……カイくんも……ありがとう……」


それを聞いて、カイはぽつりと――


「……ごめん、ユマ。勝手に持ってっちゃって。

でも……綺麗にしてあげたかっただけなんだ」


その声に、ユマは少しだけ目を見開いて、それから、にこっと笑った。


「……うん、キレイになった。ありがとう、カイくん」


その言葉が、空気の中のざわめきをすっと静めた。


そのとき、風が吹いた。


干されたシーツが揺れ、木々がざわめく音の中、

子どもたちの笑い声が、少しずつ戻っていく。


誰も責めなかった。

誰も責められなかった。


すれ違いはあったけれど、

その根っこにあったのは、“誰かを大事に思う気持ち”だったから。


「……ありがと、スイくん」


ティナがそっと言った。


「スイくんが真っ先に動いてくれたから、みんなちゃんと話せたんだよ」


「……そうかな」


「そうだよっ」


横でユマが小さく頷いて、リクも黙って親指を立てた。


その光景に、僕は少しだけ、笑ってしまった。


名前が呼ばれて、

その名前が重なって、誰かを動かして――

誰かのために名前を返すことが、“繋がり”になる。


ほんの少しだけ、それがわかった気がした。


まだ、ここに来て日が浅い僕にも。

こうして名前を呼び合ううちに、

確かに“居場所”は育っていくのだと。


「スイくん」


ふと、背中から呼ばれた声に振り向くと、セナが立っていた。


風に髪を揺らしながら、少しだけ目を細めて――


「……やっぱり、名前ってすごいね」


その言葉に、僕はうなずいた。


「……うん、ほんとに」


まだ、この名前は布に縫われていない。

けれどきっと、その響きは誰かの中に、ちゃんと残っていく。


そんな気がしていた。

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