名前を呼ばれた日:5




「こんにちは。……君の、名前は?」


 


その声は――風の音に、似ていた。


 


春の終わりに吹き込む、やわらかい風。


頬をかすめて通りすぎるだけのささやかな存在感なのに、

その余韻だけが、胸の奥に残っていくような。


 


あまりにも穏やかで、

でも、なぜか心の奥底に、すっと染み込んでくる声だった。


 


……まるで。


 


昔どこかで呼ばれたような気がする。


そんな錯覚にさえ陥るような、音だった。


 


僕は、咄嗟に何も答えられなかった。


名前を聞かれるのが、何年ぶりだったかすら思い出せない。


それは、あまりにも遠い問いだった。


 


でも、彼女はその沈黙を咎めることもなく、

静かに、やわらかく、目を細めて微笑んだ。


 


「……あ、急に聞いちゃってごめんね。

ここの子たち、みんな最初はびっくりしちゃうの。急に話しかけられると」


 


その言葉に、ようやく、喉がわずかに動いた。


 


「あ……いや……大丈夫。僕は、神埜翠。……“スイ”でいいよ」


 


返事をしたつもりなのに、声は思った以上にかすれていた。


 


けれど、彼女はその一言に、ふっと微笑み返した。


 


「……スイ、くん」


 


その音が、口から零れ落ちるのを、僕はただ静かに見つめていた。


 


「うん、なんか……似合ってるね。

私は、セナ。セナって呼んでくれたら嬉しいな」


 


そう言って、彼女はまっすぐに手を差し出してきた。


小さくて、すこしだけ冷たい指先が、ゆっくりと僕の手に触れる。


 


“セナ”。


 


初めて聞いた名前のはずなのに、


どこか懐かしい響きがした。


 


それは、音でも文字でもなく――


“呼ばれたときのぬくもり”として、胸の奥に届いた。


 


 



 


案内されたのは、小さな食堂のような部屋だった。


夕暮れの光が窓から差し込み、床をうっすらと赤く染めていた。


 


部屋の隅では、小さな子どもたちが並んで絵を描いていた。


壁際には、手作りの布人形や、折り紙が飾られている。


 


ゆったりと時間が流れていた。


ここには、あの神殿にあったような重苦しさはなかった。


どこか、懐かしい風の匂いがした。


 


「ここは、リール孤児院。

家族がいない子、帰る場所のない子……それに、スイくんみたいに召喚された子も、たまに来るんだ」


 


「……召喚って、そんなにあるの?」


 


「うん。王都の神殿で儀式として呼ばれる人もいるし、

スイくんみたいに、“個人的な祈り”で導かれる魂もいるって、先生が言ってた」


 


僕みたいな存在――他にもいるのか。


その事実に、少しだけ肩の力が抜けた。


 


けれど、すぐにセナは、少しだけ首を傾げた。


 


「でもね……“魂の形”をもらえなかった子は、私、初めて見た」


 


「……やっぱり、珍しいんだ」


 


そう言うと、彼女はほんの少し困ったような顔で、それでもまっすぐに僕を見た。


 


「うん。でも、ここに来たからには――

もう、“誰かに決められること”なんてないから」


 


その言葉が、胸に響いた。


 


「ここはね、自分で歩き方を決める場所。

“役割”も、“立場”も、気にしなくていい。

ここにいる子たちは、みんな……“居場所”を探してる途中だから」


 


彼女の言葉には、教訓じみた説得力はなかった。


むしろ、その優しさの裏に、ほんの少しの“痛み”が混じっていた。


 


だからこそ、信じたくなった。


 


「……そっか。ありがとう、セナ」


 


そう言った声が、思ったよりも小さかったのは、たぶん――


名前を呼ばれたばかりの僕の心が、まだその実感を抱えきれていなかったからだ。


 


でも、セナは静かに目を細めて、もう一度だけ、僕の名前を呼んだ。


 


「……これからは、たくさん呼ぶからね。“スイくん”って」


 


その瞬間、胸の奥が小さく震えた。


それは、呼吸とは違う、心臓の深いところで起こった揺れだった。


 


“誰かに名前を呼ばれる”――


 


ただそれだけで、生きる意味が、少しだけ変わる気がした。


 


 


それが、

僕がこの世界で最初に受け取った、“生きていい”という証だった。

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