名前を呼ばれた日:5
「こんにちは。……君の、名前は?」
その声は――風の音に、似ていた。
春の終わりに吹き込む、やわらかい風。
頬をかすめて通りすぎるだけのささやかな存在感なのに、
その余韻だけが、胸の奥に残っていくような。
あまりにも穏やかで、
でも、なぜか心の奥底に、すっと染み込んでくる声だった。
……まるで。
昔どこかで呼ばれたような気がする。
そんな錯覚にさえ陥るような、音だった。
僕は、咄嗟に何も答えられなかった。
名前を聞かれるのが、何年ぶりだったかすら思い出せない。
それは、あまりにも遠い問いだった。
でも、彼女はその沈黙を咎めることもなく、
静かに、やわらかく、目を細めて微笑んだ。
「……あ、急に聞いちゃってごめんね。
ここの子たち、みんな最初はびっくりしちゃうの。急に話しかけられると」
その言葉に、ようやく、喉がわずかに動いた。
「あ……いや……大丈夫。僕は、神埜翠。……“スイ”でいいよ」
返事をしたつもりなのに、声は思った以上にかすれていた。
けれど、彼女はその一言に、ふっと微笑み返した。
「……スイ、くん」
その音が、口から零れ落ちるのを、僕はただ静かに見つめていた。
「うん、なんか……似合ってるね。
私は、セナ。セナって呼んでくれたら嬉しいな」
そう言って、彼女はまっすぐに手を差し出してきた。
小さくて、すこしだけ冷たい指先が、ゆっくりと僕の手に触れる。
“セナ”。
初めて聞いた名前のはずなのに、
どこか懐かしい響きがした。
それは、音でも文字でもなく――
“呼ばれたときのぬくもり”として、胸の奥に届いた。
*
案内されたのは、小さな食堂のような部屋だった。
夕暮れの光が窓から差し込み、床をうっすらと赤く染めていた。
部屋の隅では、小さな子どもたちが並んで絵を描いていた。
壁際には、手作りの布人形や、折り紙が飾られている。
ゆったりと時間が流れていた。
ここには、あの神殿にあったような重苦しさはなかった。
どこか、懐かしい風の匂いがした。
「ここは、リール孤児院。
家族がいない子、帰る場所のない子……それに、スイくんみたいに召喚された子も、たまに来るんだ」
「……召喚って、そんなにあるの?」
「うん。王都の神殿で儀式として呼ばれる人もいるし、
スイくんみたいに、“個人的な祈り”で導かれる魂もいるって、先生が言ってた」
僕みたいな存在――他にもいるのか。
その事実に、少しだけ肩の力が抜けた。
けれど、すぐにセナは、少しだけ首を傾げた。
「でもね……“魂の形”をもらえなかった子は、私、初めて見た」
「……やっぱり、珍しいんだ」
そう言うと、彼女はほんの少し困ったような顔で、それでもまっすぐに僕を見た。
「うん。でも、ここに来たからには――
もう、“誰かに決められること”なんてないから」
その言葉が、胸に響いた。
「ここはね、自分で歩き方を決める場所。
“役割”も、“立場”も、気にしなくていい。
ここにいる子たちは、みんな……“居場所”を探してる途中だから」
彼女の言葉には、教訓じみた説得力はなかった。
むしろ、その優しさの裏に、ほんの少しの“痛み”が混じっていた。
だからこそ、信じたくなった。
「……そっか。ありがとう、セナ」
そう言った声が、思ったよりも小さかったのは、たぶん――
名前を呼ばれたばかりの僕の心が、まだその実感を抱えきれていなかったからだ。
でも、セナは静かに目を細めて、もう一度だけ、僕の名前を呼んだ。
「……これからは、たくさん呼ぶからね。“スイくん”って」
その瞬間、胸の奥が小さく震えた。
それは、呼吸とは違う、心臓の深いところで起こった揺れだった。
“誰かに名前を呼ばれる”――
ただそれだけで、生きる意味が、少しだけ変わる気がした。
それが、
僕がこの世界で最初に受け取った、“生きていい”という証だった。
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