第30話:見えない墓標の上で



霧が、ゆっくりと晴れていった。

夜の名残をまとった灰色の空に、ぼんやりと朝の光が滲み始める。

けれどその光は、温かくなかった。

陽は昇っているはずなのに、肌を刺す冷たさが残ったままだった。


 


ぬかるんだ足元に、薄く伸びる二人分の影。

だが、その影さえ、頼りなげに地に溶けていく。


 


世界は明るくなった。

なのに、何も変わっていなかった。

空の色も、風の匂いも、心の奥に沈んだ痛みも。


 


セナは、背を丸めたまま歩いていた。

口を閉ざし、顔を上げようとしなかった。

その肩には、まだ昨夜の震えが残っているように見えた。


 


音はなかった。

鳥の声も、虫のざわめきもない。

草も風に揺れず、すべてが止まっていた。


 


しばらく歩いた先で、地面の勾配がわずかに変わった。

丘だった。

ほとんど気づかぬほどなだらかで、けれど確かに上っていく傾斜。


 


頂に近づいたとき、僕はふと足を止めた。


 


そこに、石があった。

いくつかの、小さな石が。

不自然に、しかしどこか整った間隔で、ぽつり、ぽつりと並べられていた。


 


誰が積んだのかは、わからない。

人の手なのか、風や雨がたまたま並べたものなのか。

けれど、そこには明らかに「意味」があった。


 


名前も、碑文も、花も、骨もない。

ただ、石だけが地面に並んでいた。


 


それは、あまりにも静かな“痕跡”だった。

ここに、誰かがいたという確かな証明にはならない。

でも――何かが、確かに存在した名残だけが、そこにはあった。


 


セナも立ち止まり、石を見つめた。

目を細めるようにして、息を詰めていた。

何かを読み取ろうとするように、

何も語られないその沈黙に、耳を傾けていた。


 


丘の上には風が吹いていた。

けれど、それは命を運ぶ風ではなかった。

ただ、乾いた大地をなぞっていくだけの、冷たい流れだった。


 


僕たちは、その場に立ち尽くしていた。

何も言わず、何も動かず。

けれど、その沈黙の中に、確かに“なにか”があった。


 


世界は、まだ死んでいなかった。

でも、それは“生きている”とは言えなかった。


 


だからこそ、僕たちは――

その小さな石に、目を逸らさずに立ち尽くしていた。



僕は、しゃがみ込んだ。

足元の土の中に、指先を入れる。

冷たい土の感触。湿った小石が、掌に当たった。


 


拾い上げたのは、小さな石だった。

手のひらに収まるほどの、なんの変哲もない石。

けれど、その重さが、不思議と確かに感じられた。


 


僕は、無言のまま、その石を一つ、既に並んでいる石の隣に置いた。

間隔を見て、形を見て、もう一つ拾う。

それを、またひとつ、静かに並べる。


 


誰のために、というわけじゃない。

でも、僕の中には、いくつもの顔が浮かんでいた。


あのとき、手に取った壊れた剣。

砕かれた槍。

重たく軋んだ盾の破片。

魂武器になれなかった、あるいはなった末に壊された、あの“誰か”たち。


 


僕は、その一つ一つの断片に、石を重ねるようにして並べていった。

誰にも呼ばれず、誰にも葬られず、捨てられた命のために。


 


その音を聞いていたのか、セナが一歩、近づいてきた。


 


「……なに、してるの?」


彼女の声は、風にかき消されそうなほど小さかった。

でも、僕は答えなかった。

ただ、もうひとつ石を拾って、そっと並べた。


 


セナはしばらく黙っていた。

けれどやがて、近くの地面に視線を落とし、小さな石を拾い上げた。

迷うように、握るように、指の中でそれを転がす。

それから、僕の隣にしゃがみ、石をそっと置いた。


 


「……これで、いいのかな」


 


僕は、少しだけうなずいた。

言葉にはしなかった。

言葉にできるようなことじゃなかった。


 


それでも、セナはもう一つ、石を拾って並べた。

僕と交互に、静かに。

ただ、並べていく。

世界のどこにも存在しない、たった一つの墓標を。


 


やがて、最後の一つを置き終えたとき、

セナが、小さな声で呟いた。


 


「……ごめんね。

 呼んであげられなくて。」


 


それは、風の音にもならない囁きだった。

声というより、胸の奥の後悔がこぼれ落ちたような音だった。


 


「……ほんとは、呼びたかったの。

 でも、名前が、わからなかった……」


 


セナは、うつむいたまま、拳をぎゅっと握った。

その肩が、かすかに震えていた。


 


僕は何も言わなかった。

ただ、目の前の石を見つめていた。

冷たく、硬く、それでも確かに“誰か”の居た証のように並んだ石たちを。


 


この世界には、墓標すらない。

だけど、僕たちは、それを作った。

名もない、声もない、誰にも知られない場所に。


 


ただ、それだけでよかった。

それが、今の僕たちにできる、精一杯の祈りだった。



風が吹いた。

乾いた大地をなぞるだけの、冷たくて、何も運ばない風だった。


 


僕は、並べ終えた石たちを見つめた。

不格好で、不揃いで、

それでも、そこには確かに――誰かの痕跡があった。


 


(たとえ名前を知らなくても、

 たとえ声が届かなくても、

 僕は、君たちを覚えている。)


 


胸の奥が、じんと軋んだ。

魂武器たちの残骸を吸収しきった場所。

そこに、微かな温もりがあった。


痛みでもない。

怒りでもない。

ただ、消えかけた誰かの、生きた証の残り香だった。


 


セナが、静かに立ち上がった。

マントの裾が、わずかに風に揺れた。

顔は見えなかった。

けれど、その背中が、震えているのがわかった。


 


僕も、そっと立ち上がった。

背後に、石を積んだだけの小さな場所を残して。


誰も、そんなものには気づかない。

世界の誰も、立ち止まって目を留めることすらない。


 


それでも。

僕たちは、確かに、そこに「生きた証」を刻んだ。


誰にも呼ばれなかった存在たちの、

誰にも弔われなかった魂たちの、

たった一度の、たったひとつの祈りを。


 


振り返ることはしなかった。


振り返れば、崩れてしまいそうだった。


 


僕たちは、歩き出した。

滅びた丘を下り、再び泥まみれの道へと。


 


どこまでも、灰色の空が広がっていた。

太陽は、そこにあったはずなのに、何も温めようとはしなかった。


 


踏みしめる土は冷たく、

息をするたびに、肺の奥まで乾いた風が入り込んだ。


 


それでも、僕たちは進んだ。


背後に、小さな墓標を、残したまま。


 


その先にあるものが、さらなる絶望だとしても。

この足が、また誰かの名前を呼ぶために、踏み出せる限り。


 


進むしかなかった。


 


霧の向こうに、街の影が見えた。

フレイラ共和国

首都フルメイラ。

無法の都市。

人も、法律も、神すらも見放した地。


 


それでも。


 


そこにもきっと、呼ばれなかった名前たちが待っている。


 


僕たちは、歩き続けた。


誰のためでもなく、

この手に、誰かの生きた証を刻むためだけに。


 


滅びの匂いを孕んだ風が、

静かに僕たちを押し出していた。


 

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