第29話:名を持たぬ群れ
夜は、まだ明けきらなかった。
灰色の空が、空気を押しつぶしていた。
雲が垂れ込め、空の端すら見えない。
どこを見ても、同じ灰色が広がっていた。
歩いているはずなのに、靴音ひとつ響かない。
風は吹かず、空気だけが異様に重い。
まるで世界そのものが、呼吸を止めたかのようだった。
ふと、何かが変わった。
気づいたのは、皮膚の感覚だ。
微かな粟立ち。
重たい空気の中に、別の密度が紛れ込んできた。
セナが、ぴくりと肩を震わせた。
何も言わない。
けれど、彼女も確かに、それを感じ取っていた。
僕たちは、言葉を交わさず、足を止めた。
目の前――道の脇に、何かが積み上げられていた。
瓦礫の山かと思った。
けれど、近づくにつれて、それが違うことに気づく。
割れた剣。
折れた槍。
砕けた盾。
軋んだ鎧の破片。
それらは、雑然と、無造作に積み上げられていた。
形を保っているものは、ひとつもない。
すべてが壊され、砕かれ、役目を終えることすら許されず、捨てられていた。
魂武器――かつて、誰かの存在だったもの。
それが、こんなふうに、破片にされて、捨てられている。
近づくと、さらにわかった。
これは、ただ壊れたのではない。
意図的に、破壊された痕跡だった。
刃の断面は鋭く割かれ、盾は叩き潰され、鎧は爪で引き裂かれたような傷を持っていた。
(……使えないと判断された。
だから、壊され、捨てられた――)
背筋に、じわりと冷たいものが這った。
ここに積まれているのは、命だった。
誰にも認められなかった、誰にも呼ばれなかった命のなれの果てだった。
セナは、何も言わなかった。
けれど、その小さな拳が、マントの下で震えていた。
僕は、一歩、前に出た。
手を伸ばし、壊れた剣の柄に触れた。
ひんやりとした金属の感触が、指先を包む。
その瞬間、胸の奥に、微かなざわめきが広がった。
言葉にならない声。
呼びかけにならない祈り。
それらが、かすかに、僕の中に溶けていく。
そっと目を閉じる。
(……大丈夫だ。)
(僕の中で、眠ってくれ。)
壊された魂武器たちを、僕は、吸収した。
武器として使うことはできない。
形にはならない。
けれど、せめて――
どこにも還れなかったこの存在たちを、
僕の中でだけは、安らかに、眠らせたかった。
ポケットの中で、あの日拾った布切れが、静かに温もりを持った気がした。
誰も知らない。
誰も覚えない。
この世界では、それが当たり前だった。
けれど、僕たちは、それを、覚えていく。
たとえ、誰に何と言われても。
空気が、再び重たくなった。
振り返ると、灰色の霧の向こうに、かすかな影が揺れていた。
人の形をしている。
けれど、どこか、歪んでいる。
手が、脚が、顔が、曖昧なまま、ただ、彷徨っている。
名を持たなかった群れが、そこにいた。
僕は、無意識にセナを庇うように前に出た。
胸の奥で、まだ静かに眠っている小さな存在たちを、強く抱きしめながら。
*
霧の向こうで、何かが動いた。
ぼんやりとした輪郭が、揺れる。
最初は、鹿か何かかと思った。
けれど、違った。
近づくにつれて、その影の輪郭が、歪な人型を結び始めた。
腕が長すぎる。
脚は引きずられ、曲がっている。
背骨はねじれ、顔は、顔と呼べるものではなかった。
目も口も、かろうじて窪んでいるだけ。
声も、音も、何も発さない。
ただ、未完成のまま、この世界に置き去りにされた存在。
名を持たなかった者たち。
一体ではなかった。
二体、三体――霧の中に、ぼやけた人影が次々と揺れ始める。
彼らは、こちらを認識しているのかいないのか。
ただ、よろよろと、だが確実に、僕たちの周囲に滲み寄ってくる。
セナが、すっと息を呑んだ。
次の瞬間、彼女の背中に縫い込まれた「虚還ノ縫」がかすかに震えた。
鎖のような魂の糸が、微かに共鳴し、軋みをあげた。
名を持たなかった群れと、
彼女自身の魂が、どこかで響き合おうとしていた。
僕はすぐに動いた。
セナの肩に手を置き、無言で押さえた。
まだだ。
今、ここで、戦ってはいけない。
目の前の異形たちは、敵ではない。
戦うべきものでもない。
ここで剣を振るえば、
ここで刃を交わせば、
きっと、取り返しのつかない何かが壊れてしまう。
異形たちは、ただ彷徨っているだけだった。
存在を失い、名前を持たず、呼ばれることもなく、
ただ、行き場もなく、この世界の隅をさまよい続けている。
それを――壊すことはできなかった。
「行こう」
僕は、できるだけ静かに声をかけた。
セナは、僅かに戸惑いながらも、頷いた。
僕たちは、歩き出した。
異形たちの間を、縫うようにして。
刃を抜くことも、声を荒げることもなく。
ただ、静かに、地面を踏みしめながら。
背後で、異形たちが振り返ることはなかった。
彼らは、また、別の方向へと彷徨っていった。
誰にも呼ばれることなく。
誰にも記憶されることなく。
ただ、世界の灰の中へ、溶けていった。
胸の奥で、何かが軋んだ。
痛みだった。
怒りだった。
そして、祈りだった。
(奪われた存在を、僕は、忘れない。)
それだけを、胸に刻みながら、
僕たちは、また一歩、足を踏み出した。
滅びた世界の中を、
名前を呼ばれることのなかった魂たちの声を背に受けながら。
*
僕たちは、あえて足早にはならなかった。
異形たちを刺激しないように、静かに、迂回する。
霧の中を縫うように、瓦礫を避けながら、遠回りを続けた。
異形たちは、追ってこなかった。
誰も、こちらを呼ばなかった。
彼らは、ただ、灰色の空気の中に消えていった。
音もなく。
声もなく。
名を持つこともなく。
一瞬だけ、セナが立ち止まりかけた。
けれど、僕は振り返らなかった。
ただ、進んだ。
この背中に、積み上げたものを零さないように。
この胸に、消えた声たちを刻みつけるために。
(名を持たなかった者たちは、
こうして、誰にも知られず、誰にも呼ばれず、
ただ、消えていく。)
歩きながら、僕は静かにそう思った。
世界は、何も知らない。
誰かが生きていたことも、誰かがここで消えたことも。
それが、当たり前になっている。
それが、この世界の形になっている。
でも、僕は、忘れない。
たとえ名前がなくても。
たとえ声が届かなくても。
たとえ、世界の誰もが見ないふりをしても。
だからこそ、僕は、名前を呼ぶ。
存在を覚える。
誰かがここにいたことを、この手で証明する。
灰色の空の下、
誰にも届かない誓いを、僕は、胸の奥深くに沈めた。
まだ遠く、滅びた地平の彼方に、光はなかった。
それでも――僕たちは、歩き続けた。
ただ、名前を守るために。
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