第28話: 灰の中で声を聞く


 


ゾディーラ放棄域を踏み入れて、どれくらい経っただろう。

朝靄は、いつのまにか薄れていた。

けれど、それは明るくなるための変化ではなかった。

ただ、霧が消えただけで、視界の先に現れたのは――もっと鈍く濁った、灰色の空だった。


 


風は吹いていなかった。

いや、たぶん吹いているのだろう。

けれど、音がない。

草木が揺れる音も、木の軋む音も、どこにも存在しなかった。


 


地面は乾いてひび割れていた。

石と土が混じり合ったその表面は、長い年月を風にさらされて、風化しきっていた。

誰も歩かなくなった道。誰にも踏まれなくなった土地。

そこには、ただ「時間の遺骸」だけが残っていた。


 


セナは、口を結んだまま、黙って隣を歩いていた。

息遣いは一定で、歩幅も崩れない。

けれど、その足音すら、土に吸い込まれているようで――不思議なほど響かない。


この静けさは、異常だ。

耳を澄ませても、何も返ってこない。

風が通り抜ける音ひとつない世界が、広がっていた。


 


僕たちは、小さな丘を越えた。

すると、その先に――瓦礫に埋もれた小さな村が、ぽつんと姿を現した。


 


集落だったのだろう。

崩れかけた家の骨組みが、まるで骸骨のように並んでいた。

屋根は潰れ、壁は苔に覆われ、扉も、窓も、すでに原形を留めていない。

それでも、その配置や通路の幅から、ここにかつて「人の営み」があったことは、すぐにわかった。


 


僕は、一軒の家の扉を押し開けた。

軋む音さえしなかった。

中は、焼け落ちた木くずと、煤の匂いに満ちていた。

食器が、いくつか砕けたまま床に散らばっている。

誰かが使った皿。誰かが座っていた椅子。

けれど今は、どれも煤けて、静かに死んでいた。


 


外に出ると、セナが井戸の傍に立っていた。

石積みの縁に手をかけ、じっと底を覗き込んでいる。

僕もその隣に立ち、覗き込んだ。


水はなかった。

底が、見えた。

そこには、干上がった泥の層と、苔に侵された石が並んでいた。

まるで最初から、水なんてなかったかのように。


 


誰もが、忽然と姿を消したようだった。

叫び声もなく、抵抗の跡もなく、ただ、ある日を境に――世界から消えた。


 


それが、この場所の異常さだった。

そして、これが、“捨てられる”ということなのだと、思い知らされた。


 


セナは、何も言わなかった。

ただ、小さく肩をすくめ、また一歩、歩き出した。


 


僕も、ついていった。


 


この先に何があるのかは、わからない。

けれど、ここにあったものが「誰かの生きた証」だったことだけは、間違いなかった。


 

 


村の奥、小さな広場だったらしい場所で、僕はしゃがみ込んだ。

崩れた石柱の隙間に、何かが挟まっていた。

焦げた紙。小さな冊子の断片。日記帳の一部のようだった。

半分は炭のように黒く崩れていたが、まだ読める部分が、わずかに残っていた。


 


「……◯◯に行ったら、戻ってこれるかな……」


 


それだけ。

名前も、日付も、行き先さえも焼け落ちていた。

けれど、その言葉に宿る不安だけは、確かに残っていた。


 


“誰か”が、ここにいた。

“誰か”が、生きて、考えて、迷っていた。


でもその“誰か”の痕跡は、もう、どこにもない。

名前も、顔も、呼ばれることもなく――ただ、燃え尽きていた。


 


「……スイ」


 


背後で、セナが立ち止まっていた。

首を少し傾け、周囲を見渡している。

顔には困惑が浮かんでいたが、恐怖ではなかった。もっと曖昧で、言葉にしにくい違和感のような。


「……なんか、呼ばれたような気がした」


 


セナはそう呟いた。

かすれた声。確信のない、不確かな響き。

僕は立ち上がってあたりを見渡す。だが、風の音ひとつしなかった。


 


誰もいない。

何もない。

けれど、この空間には、何かが――沈んでいた。

言葉にならない、叫びにならなかった“声”。

誰にも届かず、誰にも覚えられず、ただ空気に染み込んで、今もなお残っている“気配”。


 


セナは首を振り、再び歩き出した。

その歩幅に合わせて、僕も無言でついていく。


 


村を抜けた。

けれど、風景は何も変わらなかった。

空は相変わらず灰色で、地面は黙ってすべてを吸い込んでいた。

人の気配はなく、代わりに“残されなかった物たち”が、道の端々に散らばっていた。


 


使い古された鍋。片方だけの靴。骨だけになった傘。

どれも生活の痕跡だ。誰かが確かに手にしていた。

けれど今は、ただ土に埋もれて、風に流されていくだけの瓦礫。


 


セナがぽつりと呟いた。


「……ここ、本当に、全部捨てられたのかな」


 


問いかけでも、独り言でもない。

それは、どこにもぶつけられない、ただの祈りのようだった。


 


僕は何も言わなかった。

ただ、歩き続けた。

けれど、心の中で、静かに答える。


 


(きっと、捨てられたんじゃない。

 最初から、誰にも“必要とされてなかった”んだ)


 


そういうことなんだ。

ここにあった命も、声も、記憶も。

世界にとっては、最初から“無”だった。


 


だから今、何も残っていない。

だから今、声もない。


 


けれど――それでも。


 


僕たちは、それを拾って、進む。


 


 


夜が来た。

けれど、闇は静かすぎた。


焚き火を起こそうとしたが、火はすぐに消えた。

拾った木々は、すべて湿り、冷えきっていた。

火打ち石の音だけが、何度か、虚しく夜気に弾けた。

それすらも、土に吸われるようにかき消えた。


あきらめて、僕たちは、地面に敷いた薄い寝具に身を縮めた。


土は冷たかった。

触れるだけで、命の温度を奪っていくようだった。

ここには、なにもない。

熱も、匂いも、命も。


 


セナは、くるまったベッドロールの中で、じっと身を潜めていた。

呼吸は浅く、震えるように細かい。


 


やがて、眠りの淵で、彼女がぽつりと漏らした。


 


「……名前……呼べなかった……」


 


かすれた、途切れそうな声。

夜気に溶けて、すぐに消えた。


僕は、何も言えなかった。

何を言えばいいのかわからなかった。


 


だからただ、空を見上げた。


 


雲が厚く垂れ込め、星一つ見えない。

どこまでも灰色の、冷たい空。

頭上からも、地面からも、闇が押し寄せてくる。

すべてが、僕たちを飲み込もうとしていた。


 


(声をあげれば、返ってくるものがあると信じていた。)


子どものころ。

誰かに名前を呼んでもらえる日が来ると、

そんな当たり前を、信じていた。


でも――


 


(この世界では、“誰にも呼ばれない”ことが、普通なんだ。)


 


それが、現実だった。


存在しても、誰も気づかない。

名を持っても、誰も呼ばない。

命が消えても、誰も覚えない。


ここは、そういう場所だった。


 


だからこそ。


 


だからこそ、僕は、名前を守る。


たとえ、声が届かなくても。

たとえ、誰にも知られなくても。

たとえ、この足が泥に沈もうとも。


 


――僕が覚えている限り、

君たちは、ここにいたと、言えるから。


 


夜の中、ただ一人、誓った。


誰にも届かないと知りながら。

それでも、消えた声たちのために。


 


 


世界は、何も変わらず、灰色のまま。

それでも僕たちは、進む。


ただ、それだけだった。


 

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