第24話: 滅びの匂いを孕んだ夜に



夜のミレイダは、昼よりもずっと静かだった。

石畳を踏みしめる音だけが、薄暗い路地に溶けていく。


宿に戻るふりをして、スイとセナは町の裏手へと歩いた。

市場の喧騒から外れたこの一帯は、昼間でさえ薄汚れている。

夜ともなれば、誰もが視線を伏せ、足早に通り過ぎていく。


 


スイは、黒衣のフードを深く被った。

セナもそれに倣い、アッシュグリーンの外套をぎゅっと掻き寄せた。


 


言葉は交わさない。

交わせなかった。


今、自分たちがどれだけ危うい場所に足を踏み入れようとしているのか、痛いほどわかっていたから。


 


目指すのは、市場の裏に広がる小さな横丁。

昼は物乞いたちが屯い、夜は盗品や禁制品がやり取りされる場所。

そして――噂があった。


 


魂を売る市場は、表通りには存在しない。

闇に沈んだ、この裏側に潜んでいると。


 


スイは歩を進めた。

薄汚れた石壁をかすめ、傾いた家々の隙間を縫うように。

鼻を突く生臭い風が、どこからか吹き寄せた。


 


やがて、ひとつの露店を見つけた。

粗末な布を敷いただけの、誰にも注目されない小さな店。


そこに、ひとりの老人が腰を下ろしていた。

皺だらけの手。

濁った瞳。


けれど、その手元には、妙に輝きを放つ何かが並べられていた。


 


スイは無言で近づいた。

セナは、少し後ろで周囲を見張る。


 


老人は、スイたちを見上げもせず、掠れた声で呟いた。


 


「……探し物か」


 


スイは答えなかった。

ただ、ちらりと視線を落とす。


並べられていたのは――武具だった。

短剣、ナイフ、拳銃のような異国の道具。


だが、それらの中に、ひときわ異様なものがあった。


 


鈍く黒ずんだ片刃の剣。

まるで生き物のように、微かに脈打っている。


 


スイは、そこに目を留めた。


 


老人が、くしゃりと笑った。


 


「それはな……“抜かれた後”だよ」


 


掠れた声。


 


「本物は……もう、ここにはない」


 


 


スイは、無言で続きを促した。


 


老人は、湿った咳をひとつこぼしてから、言った。


 


「……西の、フルメイラ。

 あそこなら、まだ“生きたモノ”が売られてる」


 


フルメイラ。


無政府の廃棄都市。


かつて国に見捨てられた人間たちが群れ、

今ではあらゆる禁忌が罷り通る地。


 


スイは、そっと拳を握った。

背後のセナが、かすかに身を震わせる気配があった。


 


それでも。


 


誰も、顔色を変えなかった。

誰も、声を上げなかった。


 


この世界では、常識なのだ。

名前を失った魂が、物のように取引されることが。


 


老人は、何もなかったかのように、また小さなナイフを磨き始めた。


それ以上、話を引き出すのは無理だと、スイは悟った。


 


彼らは、“知る者”ではない。

ただ、“流れ着いたもの”を受け取るだけの末端だ。


 


本当の源は――


もっとずっと、暗く、深い場所にある。


 


スイは、セナに軽く合図を送った。

ふたりは、何も買わず、何も言わず、その場を離れた。


 


闇に紛れて、誰にも気づかれぬように。


町の夜は、ただ、冷たく流れていた。


 


 


路地を抜けたところで、スイは足を止めた。


 


背後にあるはずの市場の灯りも、声も、ここまでは届かない。

闇がすべてを覆い尽くしている。

遠く、犬の鳴き声だけがかすれて響いた。


 


セナも、黙って隣に立っていた。

表情は見えなかったが、肩の震えが、彼女の内心をすべて物語っていた。


 


ここは、町の裏側だった。

誰も踏み入れない、誰も気づかないふりをする、排水と廃棄物の集積場。


 


スイは、じっと耳を澄ませた。


 


何か、聞こえた気がした。


 


すぐ近くの、地面の下――

水音。

それに、低くうねるような、金属の軋み。


 


「……地下、だ」


 


スイは、呟いた。


 


セナが、不安そうにスイを見た。


 


そのときだった。

通りの隅、破れたテントの下にうずくまっていた老人たちの会話が、ふと耳に入った。


 


「……また運ばれたってさ」

「魂抜きか? ああ……あの連中は地下通すからな」


 


スイは、呼吸を浅くした。


 


魂を抜かれた者たちは、地下を通って運ばれる。


 


この町の、誰も知らない裏側を通って。


 


セナが、無言でスイの袖を掴んだ。

その手は、冷たかった。


 


スイもまた、理解した。


 


この町は、表面だけだ。

子どもたちが笑う広場も、商人たちの賑わう市場も、

旅人を迎えるギルドの煌びやかな看板も。


 


すべては、仮面だった。


 


誰もが、何かを隠して生きている。

知らないふりをして、今日を消費していく。


 


地の底で、どれだけの命が搾り取られていようと。

誰も、気づかないふりをして。


 


スイは、拳を握りしめた。


 


この町には、確かに地下がある。

だが、入り口は閉ざされている。

ギルド本部か、一部の上層市民――選ばれた者たちしか、そこに辿り着けない。


 


この世界の仕組みは、最初から完成していた。

名前を持つ者だけが生き延び、持たない者は、道具に変えられる。


 


それが、この町の、“当たり前”だった。


 


スイは、目を閉じた。


 


夜風が、乾いた地面を撫でた。

どこまでも冷たく、どこまでも無関心だった。


 


この町の笑顔も、

子どもたちの笑い声も、

あの日交わした「ありがとう」も。


 


すべて、仕組まれた仮面だ。


 


――優しさに見せかけた、絶望だ。


 


スイは、静かに歩き出した。


セナも、何も言わずについてきた。


 


影は、ひとつに溶けた。


夜の中へ、何も持たずに、ただ沈んでいった。


 



 


宿に戻った頃には、夜はすっかり沈み切っていた。


 


狭い部屋の中。

歪んだ窓ガラス越しに覗く星空は、やけに遠かった。


 


スイは、ベッドに腰を下ろした。

セナは、壁にもたれて、小さく膝を抱えていた。


 


互いに、言葉はなかった。


 


すでに決まっていたからだ。

何も話さなくても、互いの胸の奥に、同じ答えがあった。


 


――今、ここで動いてはいけない。


 


焦れば、潰される。

怒りに任せれば、全てを失う。


 


牙を隠すしかない。


牙を研ぎ、牙を磨き、

本当に必要なときにだけ――食い破るために。


 


スイは、静かに目を閉じた。


 


世界は、汚れていた。


だが、だからこそ。

だからこそ、自分たちは立ち続けなければならない。


 


今は、時を待つ。

静かに、しなやかに、隙を探しながら。


 


「……次は、フルメイラだ」


 


誰に言うでもなく、スイは呟いた。


 


セナが、小さく頷いた。


 


廃棄された無政府都市。

地図にも、名前だけしか記されていない場所。


 


けれど、そこにはあるはずだ。

この歪んだ世界を繋ぎ止めている、見えない鎖が。


 


魂武器たちが流され、

名前を剥がされた者たちが使い捨てられる、その根源が。


 


スイは、ベッドの脇に置いた黒衣の裾を握りしめた。


 


この手で、暴く。


この手で、壊す。


この手で、取り戻す。


 


たとえ、どれだけ穢れようとも。


 


宿の中を、冷たい夜風が撫でた。


 


セナの髪が、かすかに揺れた。


その影の向こうに、明日が見えた。


 


滅びの匂いを孕んだ、未来だった。


それでも。


 


ふたりは、ただ静かに座っていた。


 


まだ誰も気づかない。


この世界の裏で、小さな牙が、音もなく目を覚まそうとしていることに。


 

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