第18話: 守れなかった命の上で、僕たちは歩く
季節が、ひとつ巡ろうとしていた。
ミレイダの町に来てから、
もう一ヶ月が経っていた。
朝、陽が昇ると同時に宿を出て、
ギルドに向かい、
荷運びや討伐、護衛などの小型依頼を黙々とこなす。
そんな日々を、スイとセナは繰り返していた。
最初のうちは、誰もが彼らを一瞥するだけだった。
だが、
日が経つにつれ、少しずつ、町の人々の目が変わっていった。
市場で荷物を運べば、
老婆が小さな果実を一つ、袋に忍ばせてくれる。
雑貨屋で細々とした仕事を請け負えば、
若い職人たちが「ありがとう」と、恥ずかしそうに声をかけてくれる。
誰かに必要とされる感覚。
それは、
スイにもセナにも、まだ不慣れなものだった。
けれど、確かに嬉しかった。
名前を持たず、
役割も与えられなかった、あの日々からすれば――
たとえ小さなものでも、
差し出される温もりは、胸に滲んだ。
*
小さな依頼を重ねるたび、
少しずつ、路銀も溜まっていった。
毎日を生き抜くだけなら、何も問題なかった。
けれど、
スイは思っていた。
もっと、
もっと先に進まなければならないと。
そしてある日。
二人は、
ギルドで得た報酬を手に、
町の武具店を訪れた。
石造りの建物の奥には、
冒険者たちが求める武具がずらりと並んでいた。
剣、弓、鎧、盾――
どれも、
この町がギルド都市であることを証明する、しっかりとした品だった。
スイは、黒を選んだ。
上下、黒衣。
華美な装飾はない。
軽く、動きやすく、
汚れても目立たない実用本位のもの。
袖を通したとき、
背筋に静かな芯が通った気がした。
一方、セナは、
迷うことなく一着の服に手を伸ばした。
淡いアッシュグリーンの、
ワンピース型の防具。
軽やかな布地に、柔らかな革が要所を補強している。
可憐で、
けれど決して脆くない。
その姿を見て、スイは思った。
この子は、
どれだけ傷ついても、
きっと、自分の色を失わないのだと。
二人は、
新しい装備を身に纏い、
互いに小さくうなずき合った。
ここからまた、
一歩を踏み出すために。
*
ギルドの大広間は、朝から賑わっていた。
冒険者たちが依頼書を眺め、
受付前には、順番待ちの列ができている。
鎧の軋む音。
皮袋を叩く音。
剣の鞘鳴り。
その中に、スイとセナも並んでいた。
受付台の向こう、
無愛想な中年職員が、手慣れた動きで書類を捌いていた。
やがて、スイたちの順番が来る。
職員は、ちらりとこちらを見やり、
手元の名簿を確認すると、
無言で新しい札を取り出した。
それを、スイの前に差し出す。
「……認定だ。今日からお前たちはゴールドランクだ」
淡々とした声だった。
けれど、
スイは、確かにその響きの中に、
わずかな重みを感じ取った。
セナも、隣で小さく目を見開いた。
スイは、静かに札を受け取った。
そこには、
銀の縁取りの上に、淡く金色の刻印が浮かんでいた。
ゴールドランク。
それは、この世界で生き抜くための、ひとつの通過点だった。
ギルドのランクは、
下から順にこう並んでいる。
シルバー。
ゴールド。
プラチナ。
ミスリル。
アダマンタイト。
そして今、
ようやくスイたちは、最初の壁を越えたのだ。
職員は、札を手渡すと、
淡々と続けた。
「……いいか。
ゴールド以上は、命を落とす覚悟が必要だ。
依頼の質も、敵も、シルバーとは比べものにならない。
心して臨め」
抑えた口調の中に、
隠しきれない警告が滲んでいた。
スイは、短くうなずいた。
セナもまた、ぎこちなくも真剣な面持ちで応じた。
新しい札を手に、二人は受付を後にする。
ギルドの広間のざわめきの中で、
ちらちらと向けられる視線があった。
驚き。
羨望。
そして――わずかな警戒。
まだ何も変わっていない。
だが、確かに、
何かが、一段、世界の奥へ踏み込んだのだ。
そのことを、
スイも、セナも、肌で感じていた。
ギルドの掲示板に、新しい依頼が貼り出されていた。
いつもの小型依頼ではない。
「討伐」「護衛」「探索」――
いずれも、明らかに危険度の高いものばかりだった。
スイは、その中の一枚に目を留めた。
依頼書の端には、小さくこう記されていた。
《対象:大型個体、魂刻印に異常あり》
魂刻印に異常。
また、か。
スイは、無言でそれを見つめた。
背後で、セナが小さく息を呑んだ気配があった。
誰も気づかない。
誰も気にしない。
だが、僕たちにはわかる。
この世界の”異常”は、
確かに、静かに広がりつつある。
そして――
もう、引き返すことはできない。
*
依頼は、村だった。
町の外れから、さらに二日歩いた先にある、
小さな集落。
依頼内容は、
「魔獣による村落被害の調査と討伐」。
ありふれた内容に見えた。
だが、
依頼書の隅に、小さく記されていた。
《魂刻印に異常》
スイは、それだけを頼りに、
セナと二人、道なき道を踏み越えて、村へ向かった。
*
村は、静かだった。
異様なほどに、静かだった。
かつては畑だったであろう土地は、
荒れ果て、雑草に覆われている。
崩れかけた家々。
ひび割れた井戸。
人気は、なかった。
いや。
あった。
スイは、ゆっくりと歩みを進める。
セナは、そのすぐ後ろを、
小さく肩を震わせながら、ついてきた。
そのときだった。
軒先の陰。
崩れた壁の向こう。
そこに、
人影が、あった。
小さな影だった。
子ども。
ひとりではない。
二人、三人――
スイたちの気配に気づいたのか、
影たちは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、光がなかった。
焦点の定まらない目。
乾ききった唇。
身体には、歪んだ傷跡。
肩、腕、背中。
かつて、魂の刻印があったはずの場所に、
焼け焦げた痕が浮かんでいた。
スイは、息を呑んだ。
魂武器化の失敗。
無理やり、魂を道具に変えようとされた結果。
形を成すこともできず、
人格を保つこともできず、
ただ、壊れかけた肉体だけが残った存在。
子どもたちは、
よろよろと、足を引きずりながら、
こちらへと歩み寄ってきた。
セナが、短く悲鳴を飲み込む。
「……助けなきゃ……!」
震える声で、セナが呟いた。
スイも、頷いた。
遅すぎるかもしれない。
けれど、それでも。
二人は駆け寄った。
手を伸ばした。
だが――
子どもたちの身体が、
ぶるりと震えた。
次の瞬間。
腹部が、内側から、割れた。
「――ッ!!」
鈍い音とともに、
血と肉片を撒き散らして、
何かが、這い出してきた。
異形だった。
骨と皮だけの手足。
膨れ上がった頭部。
ぐちゃぐちゃに歪んだ顔面。
人でも、獣でもない。
ただ、
失われた魂の残骸が、
絶叫を上げながら蠢く存在。
一体、二体ではない。
子どもたちの体内から、
次々と、異形が生まれ出た。
セナが、声にならない悲鳴を上げた。
スイは、即座に構えた。
右手に、夢切ノ剣を呼び出す。
刃が、青白い光を放ちながら浮かび上がる。
異形たちは、
呻きながら、スイたちへと襲いかかってきた。
スイは、躊躇わなかった。
剣を振るう。
刃が、空気を裂き、
異形の胴を断つ。
次の瞬間には、
響幻ノ輪を呼び出し、
音波の爆ぜる輪を投げた。
追星ノ弓を引き絞り、
矢を放つ。
綴環ノ糸を伸ばし、
異形たちの動きを封じる。
ひとつ、またひとつ。
子どもたちの魂の武器を、
今、スイは借り受けて戦っていた。
それは、優しさではなかった。
それは、悲しみでもなかった。
ただ――怒りだった。
「なんでだよ!!」
叫びが、喉を裂いた。
なんで、
子どもたちがこんな目に遭わなきゃならない。
なんで、
こんなものを産み落とさなきゃならない。
この世界は。
この世界だけは。
絶対に――許さない。
異形を薙ぎ払うたびに、
刃に、矢に、糸に、
スイの怒りが滲んでいく。
セナも、虚還ノ縫を手に、
必死に異形を受け止めていた。
不完全なその武器は、
彼女の体を軋ませながら、
それでも、魂を守ろうと戦っていた。
やがて。
異形たちは、
断末魔の呻き声とともに、
血と肉に還った。
荒れた村の中に、
重い沈黙が落ちた。
スイは、ただ、そこに立っていた。
剣を握ったまま。
糸を握ったまま。
拳を震わせながら。
子どもたちの、
小さな亡骸の前で。
何も守れなかったという、
圧倒的な無力感だけが、
胸の奥を食い破ろうとしていた。
*
静寂が、村を支配していた。
異形たちは、すべて滅んだ。
残されたのは、
血に濡れた土と、
崩れた家々と――
小さな、何の形も留めていない、肉片だけ。
子どもたちだったものは、
もう、どこにもいなかった。
魂を武器化することさえ、できなかった。
名前も、姿も、何もかも。
失われた。
スイは、剣を握ったまま立ち尽くしていた。
手の中の武器が、重かった。
ただの鉄ではない。
子どもたちの、
失われた願いの重さだった。
セナも、武器を手に、
顔を伏せたまま、動けなかった。
救えなかった。
守れなかった。
初めて、真正面から突きつけられた。
「何もできなかったんだ」という、
どうしようもない現実を。
魂を引き戻すこともできず、
ただ、斬って、撃ち抜いて、
終わらせることしか、できなかった。
それが、今の――
自分たちの、力だった。
スイは、静かに息を吐いた。
喉が焼けるように痛かった。
そのときだった。
村の残された住人たちが、
ぽつぽつと、瓦礫の陰から姿を現した。
怯えた目。
こわばった顔。
彼らは、
異形たちの骸と、スイたちの姿を見比べた。
そして――
「……助かった」
誰かが、そう呟いた。
「本当に、ありがとう……!」
またひとりが、震える声で言った。
やがて、
村人たちは、次々にスイたちのもとへ集まってきた。
擦り切れた手で、何度も何度も頭を下げ、
汚れた目で、心からの感謝を告げた。
英雄を見る目だった。
救世主を見る目だった。
スイも、セナも、
何も言えなかった。
助けたのではない。
救ったのではない。
彼らが見ているのは、
“異形を倒した結果”だけだった。
そこに至るまでに、
何があったのか。
どれだけ、失われたのか。
誰も、知らない。
誰も、知ろうとしない。
スイは、セナの肩に手を置いた。
セナは、かすかに身を震わせ、
それでも、顔を上げた。
「……行こう」
スイは、絞り出すように言った。
セナは、小さく頷いた。
掌に残る感触は、
重たく、冷たく、
二度と消えない傷のようだった。
それでも。
歩き出す。
誰かの声が、背後で叫んでいた。
「ありがとう!」
「本当に、ありがとう!」
その言葉を、背中に浴びながら。
自分たちは、
何ひとつ救えなかったのだと。
その痛みだけを、
胸の奥深くに沈めながら。
二人は、
壊れた村を後にした。
夕陽は、
地平の向こうに、
ただ、沈んでいった。
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