第18話: 守れなかった命の上で、僕たちは歩く


 


季節が、ひとつ巡ろうとしていた。


 


ミレイダの町に来てから、

もう一ヶ月が経っていた。


 


朝、陽が昇ると同時に宿を出て、

ギルドに向かい、

荷運びや討伐、護衛などの小型依頼を黙々とこなす。


そんな日々を、スイとセナは繰り返していた。


 


最初のうちは、誰もが彼らを一瞥するだけだった。


だが、

日が経つにつれ、少しずつ、町の人々の目が変わっていった。


 


市場で荷物を運べば、

老婆が小さな果実を一つ、袋に忍ばせてくれる。


雑貨屋で細々とした仕事を請け負えば、

若い職人たちが「ありがとう」と、恥ずかしそうに声をかけてくれる。


 


誰かに必要とされる感覚。


それは、

スイにもセナにも、まだ不慣れなものだった。


 


けれど、確かに嬉しかった。


名前を持たず、

役割も与えられなかった、あの日々からすれば――


 


たとえ小さなものでも、

差し出される温もりは、胸に滲んだ。


 



 


小さな依頼を重ねるたび、

少しずつ、路銀も溜まっていった。


 


毎日を生き抜くだけなら、何も問題なかった。


けれど、

スイは思っていた。


もっと、

もっと先に進まなければならないと。


 


そしてある日。


二人は、

ギルドで得た報酬を手に、

町の武具店を訪れた。


 


石造りの建物の奥には、

冒険者たちが求める武具がずらりと並んでいた。


剣、弓、鎧、盾――


どれも、

この町がギルド都市であることを証明する、しっかりとした品だった。


 


スイは、黒を選んだ。


上下、黒衣。


華美な装飾はない。


軽く、動きやすく、

汚れても目立たない実用本位のもの。


 


袖を通したとき、

背筋に静かな芯が通った気がした。


 


一方、セナは、

迷うことなく一着の服に手を伸ばした。


 


淡いアッシュグリーンの、

ワンピース型の防具。


軽やかな布地に、柔らかな革が要所を補強している。


可憐で、

けれど決して脆くない。


 


その姿を見て、スイは思った。


この子は、

どれだけ傷ついても、

きっと、自分の色を失わないのだと。


 


二人は、

新しい装備を身に纏い、

互いに小さくうなずき合った。


 


ここからまた、

一歩を踏み出すために。


 


 


ギルドの大広間は、朝から賑わっていた。


 


冒険者たちが依頼書を眺め、

受付前には、順番待ちの列ができている。


鎧の軋む音。

皮袋を叩く音。

剣の鞘鳴り。


 


その中に、スイとセナも並んでいた。


 


受付台の向こう、

無愛想な中年職員が、手慣れた動きで書類を捌いていた。


やがて、スイたちの順番が来る。


 


職員は、ちらりとこちらを見やり、

手元の名簿を確認すると、

無言で新しい札を取り出した。


 


それを、スイの前に差し出す。


 


「……認定だ。今日からお前たちはゴールドランクだ」


 


淡々とした声だった。


 


けれど、

スイは、確かにその響きの中に、

わずかな重みを感じ取った。


 


セナも、隣で小さく目を見開いた。


 


スイは、静かに札を受け取った。


そこには、

銀の縁取りの上に、淡く金色の刻印が浮かんでいた。


 


ゴールドランク。


 


それは、この世界で生き抜くための、ひとつの通過点だった。


 


ギルドのランクは、

下から順にこう並んでいる。


 


シルバー。

ゴールド。

プラチナ。

ミスリル。

アダマンタイト。


 


そして今、

ようやくスイたちは、最初の壁を越えたのだ。


 


職員は、札を手渡すと、

淡々と続けた。


 


「……いいか。

ゴールド以上は、命を落とす覚悟が必要だ。

依頼の質も、敵も、シルバーとは比べものにならない。

心して臨め」


 


抑えた口調の中に、

隠しきれない警告が滲んでいた。


 


スイは、短くうなずいた。


セナもまた、ぎこちなくも真剣な面持ちで応じた。


 


新しい札を手に、二人は受付を後にする。


 


ギルドの広間のざわめきの中で、

ちらちらと向けられる視線があった。


驚き。

羨望。

そして――わずかな警戒。


 


まだ何も変わっていない。


だが、確かに、

何かが、一段、世界の奥へ踏み込んだのだ。


 


そのことを、

スイも、セナも、肌で感じていた。


 


ギルドの掲示板に、新しい依頼が貼り出されていた。


いつもの小型依頼ではない。


「討伐」「護衛」「探索」――

いずれも、明らかに危険度の高いものばかりだった。


 


スイは、その中の一枚に目を留めた。


依頼書の端には、小さくこう記されていた。


 


《対象:大型個体、魂刻印に異常あり》


 


魂刻印に異常。


 


また、か。


スイは、無言でそれを見つめた。


 


背後で、セナが小さく息を呑んだ気配があった。


 


誰も気づかない。


誰も気にしない。


だが、僕たちにはわかる。


 


この世界の”異常”は、

確かに、静かに広がりつつある。


 


そして――


 


もう、引き返すことはできない。


 


 


依頼は、村だった。


 


町の外れから、さらに二日歩いた先にある、

小さな集落。


 


依頼内容は、

「魔獣による村落被害の調査と討伐」。


ありふれた内容に見えた。


だが、

依頼書の隅に、小さく記されていた。


 


《魂刻印に異常》


 


スイは、それだけを頼りに、

セナと二人、道なき道を踏み越えて、村へ向かった。


 



 


村は、静かだった。


 


異様なほどに、静かだった。


 


かつては畑だったであろう土地は、

荒れ果て、雑草に覆われている。


崩れかけた家々。


ひび割れた井戸。


 


人気は、なかった。


いや。


 


あった。


 


スイは、ゆっくりと歩みを進める。


セナは、そのすぐ後ろを、

小さく肩を震わせながら、ついてきた。


 


そのときだった。


 


軒先の陰。


崩れた壁の向こう。


 


そこに、

人影が、あった。


 


小さな影だった。


 


子ども。


 


ひとりではない。


二人、三人――


 


スイたちの気配に気づいたのか、

影たちは、ゆっくりと顔を上げた。


 


その瞳には、光がなかった。


焦点の定まらない目。


乾ききった唇。


 


身体には、歪んだ傷跡。


肩、腕、背中。


かつて、魂の刻印があったはずの場所に、

焼け焦げた痕が浮かんでいた。


 


スイは、息を呑んだ。


 


魂武器化の失敗。


 


無理やり、魂を道具に変えようとされた結果。


形を成すこともできず、

人格を保つこともできず、

ただ、壊れかけた肉体だけが残った存在。


 


子どもたちは、

よろよろと、足を引きずりながら、

こちらへと歩み寄ってきた。


 


セナが、短く悲鳴を飲み込む。


 


「……助けなきゃ……!」


 


震える声で、セナが呟いた。


 


スイも、頷いた。


 


遅すぎるかもしれない。


けれど、それでも。


 


二人は駆け寄った。


 


手を伸ばした。


 


だが――


 


子どもたちの身体が、

ぶるりと震えた。


 


次の瞬間。


 


腹部が、内側から、割れた。


 


「――ッ!!」


 


鈍い音とともに、

血と肉片を撒き散らして、

何かが、這い出してきた。


 


異形だった。


 


骨と皮だけの手足。


膨れ上がった頭部。


ぐちゃぐちゃに歪んだ顔面。


 


人でも、獣でもない。


 


ただ、

失われた魂の残骸が、

絶叫を上げながら蠢く存在。


 


一体、二体ではない。


 


子どもたちの体内から、

次々と、異形が生まれ出た。


 


セナが、声にならない悲鳴を上げた。


スイは、即座に構えた。


 


右手に、夢切ノ剣を呼び出す。


刃が、青白い光を放ちながら浮かび上がる。


 


異形たちは、

呻きながら、スイたちへと襲いかかってきた。


 


スイは、躊躇わなかった。


 


剣を振るう。


刃が、空気を裂き、

異形の胴を断つ。


 


次の瞬間には、

響幻ノ輪を呼び出し、

音波の爆ぜる輪を投げた。


 


追星ノ弓を引き絞り、

矢を放つ。


綴環ノ糸を伸ばし、

異形たちの動きを封じる。


 


ひとつ、またひとつ。


子どもたちの魂の武器を、

今、スイは借り受けて戦っていた。


 


それは、優しさではなかった。


それは、悲しみでもなかった。


 


ただ――怒りだった。


 


「なんでだよ!!」


 


叫びが、喉を裂いた。


 


なんで、

子どもたちがこんな目に遭わなきゃならない。


なんで、

こんなものを産み落とさなきゃならない。


 


この世界は。


この世界だけは。


 


絶対に――許さない。


 


異形を薙ぎ払うたびに、

刃に、矢に、糸に、

スイの怒りが滲んでいく。


 


セナも、虚還ノ縫を手に、

必死に異形を受け止めていた。


不完全なその武器は、

彼女の体を軋ませながら、

それでも、魂を守ろうと戦っていた。


 


やがて。


 


異形たちは、

断末魔の呻き声とともに、

血と肉に還った。


 


荒れた村の中に、

重い沈黙が落ちた。


 


スイは、ただ、そこに立っていた。


 


剣を握ったまま。


糸を握ったまま。


拳を震わせながら。


 


子どもたちの、

小さな亡骸の前で。


 


何も守れなかったという、

圧倒的な無力感だけが、

胸の奥を食い破ろうとしていた。


 


 


静寂が、村を支配していた。


 


異形たちは、すべて滅んだ。


残されたのは、

血に濡れた土と、

崩れた家々と――


 


小さな、何の形も留めていない、肉片だけ。


 


子どもたちだったものは、

もう、どこにもいなかった。


 


魂を武器化することさえ、できなかった。


 


名前も、姿も、何もかも。


失われた。


 


スイは、剣を握ったまま立ち尽くしていた。


手の中の武器が、重かった。


ただの鉄ではない。


子どもたちの、

失われた願いの重さだった。


 


セナも、武器を手に、

顔を伏せたまま、動けなかった。


 


救えなかった。


守れなかった。


 


初めて、真正面から突きつけられた。


 


「何もできなかったんだ」という、

どうしようもない現実を。


 


魂を引き戻すこともできず、

ただ、斬って、撃ち抜いて、

終わらせることしか、できなかった。


 


それが、今の――


自分たちの、力だった。


 


スイは、静かに息を吐いた。


喉が焼けるように痛かった。


 


そのときだった。


 


村の残された住人たちが、

ぽつぽつと、瓦礫の陰から姿を現した。


 


怯えた目。


こわばった顔。


 


彼らは、

異形たちの骸と、スイたちの姿を見比べた。


そして――


 


「……助かった」


 


誰かが、そう呟いた。


 


「本当に、ありがとう……!」


 


またひとりが、震える声で言った。


 


やがて、

村人たちは、次々にスイたちのもとへ集まってきた。


 


擦り切れた手で、何度も何度も頭を下げ、

汚れた目で、心からの感謝を告げた。


 


英雄を見る目だった。


 


救世主を見る目だった。


 


スイも、セナも、

何も言えなかった。


 


助けたのではない。


救ったのではない。


 


彼らが見ているのは、

“異形を倒した結果”だけだった。


 


そこに至るまでに、

何があったのか。


どれだけ、失われたのか。


 


誰も、知らない。


誰も、知ろうとしない。


 


スイは、セナの肩に手を置いた。


セナは、かすかに身を震わせ、

それでも、顔を上げた。


 


「……行こう」


 


スイは、絞り出すように言った。


セナは、小さく頷いた。


 


掌に残る感触は、

重たく、冷たく、

二度と消えない傷のようだった。


 


それでも。


 


歩き出す。


 


誰かの声が、背後で叫んでいた。


「ありがとう!」

「本当に、ありがとう!」


 


その言葉を、背中に浴びながら。


 


自分たちは、

何ひとつ救えなかったのだと。


 


その痛みだけを、

胸の奥深くに沈めながら。


 


二人は、

壊れた村を後にした。


 


夕陽は、

地平の向こうに、

ただ、沈んでいった。


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