第17話: 違和感の積み重ね


 


それから、数日が過ぎた。


スイとセナは、朝に宿を出て、

昼には依頼をこなし、

夜には簡素な食事を取って休む――

そんな単調な生活を繰り返していた。


運んだ荷は、麦粉や織物。

駆除した魔物は、畑を荒らす小型の牙獣。

護衛した商隊は、小さな田舎町へ向かう貧しい一行だった。


どの仕事も、命に関わるようなものではなかった。

それでも、世界は確実に、彼らに小さな重みを刻み込んでいった。


何より、セナが変わった。


初めての討伐の夜、あれほど怯えていた彼女が、

今では、自ら武器に手をかける瞬間がある。

たとえ虚還ノ縫が、腕に痛みを走らせても。


スイは、それが嬉しかった。

けれど同時に、どこか怖くもあった。


何かを失っていないか――

そんな予感が、喉の奥にひっかかっていた。


 



 


ギルドの掲示板前には、今日も多くの冒険者たちが集まっていた。


依頼書がずらりと貼り出され、

それを見上げる背中が、いくつも並んでいる。


革鎧の男たち。

布をまとった旅人風の者たち。

剣や槍、弓――

それぞれが、それぞれの生きるための道具を手にしていた。


その隙間に、スイとセナも立っていた。


二人並んで、無言で依頼書を眺める。

スイは冷静に内容を読み取り、セナは小さく背伸びして、文字を追っていた。


周囲のざわめきの中で、ふと耳に引っかかる声があった。


「……また、あの新人たちか」


低い声。

ひそやかな、しかし悪意を含まない呟きだった。


「思ったより、使えるな」

「意外と根性あるじゃねえか」


別の声も、どこかから聞こえてくる。


直接話しかけられたわけではない。

名を呼ばれたわけでもない。


それでも、確かにスイたちは――認知されていた。


セナが、ちらりとスイを見上げた。

そして、気まずそうに、けれど確かに、口元を緩めた。


嬉しそうだった。


誰かに、存在を認められること。

名前を持たない孤児院の中では、得られなかった感覚。


それが、今、ほんのわずかに、手の中にある。


スイもまた、小さく息を吐いた。


悪くない。

たとえ、それが一瞬のものであったとしても。


セナは、掲示板に貼られた依頼書を指さした。


「……これ、どうかな?」


まだぎこちないけれど、

セナ自身が選ぼうとするその手つきに、

スイは微笑み返した。


「うん。行こう」


そうして二人は、また、歩き出した。


小さな一歩。

けれど確かな、一歩だった。


 


 


スイとセナは毎日地道に依頼をこなし続けた。


市場から薬草を運び、

畑を荒らす牙獣を追い払い、

町外れの商隊を小さな村まで護送する。


ひとつ、またひとつ。

小さな仕事を積み重ねるたびに、

町の人々の目が、わずかに柔らかく変わっていくのがわかった。


市場の老婆は、彼らを見かけるたびに微笑み、

若い商人たちは、通りすがりに「今日も頑張ってるな」と声をかけた。


「ちょっといい子たちだな」

そんな囁きが、広場の片隅で聞こえたこともあった。


セナは、最初こそ戸惑っていたが、

やがて、人々の何気ない言葉に、小さな笑顔を返せるようになっていた。


スイもまた、感じていた。


ようやく、何かを掴みかけている――そんな手応えを。


宿代を払い、簡素な食事を取り、それでも少しずつ、

路銀は溜まっていった。


無駄遣いをする余裕など、最初からなかった。


それでも、

懐に重みが増していくたびに、

「生きている」という実感が、静かに胸に灯っていた。


 


だが。


 


それは、

表面だけの話だった。


 


ギルドに戻り、次の依頼を探していたとき。


ふと、耳に引っかかるものがあった。


カウンターの奥、

書類をめくるふりをしながら、

職員たちが交わす、低く抑えた声。


「……例の剣の件、どうする?」


誰かがそう呟いた。


「まだだ。もう少し様子を見ろ」


別の声が、静かに応じる。


スイは、顔色ひとつ変えずに掲示板を見続けた。

だが、背筋が僅かに冷えた。


セナもまた、気づいたのだろう。

小さく身をすくめ、スイの袖を掴んだ。


いつもより、わずかに強く。


ギルド内のざわめきは、何も変わらないように見えた。

冒険者たちが依頼を選び、武具の手入れをし、

受付の女たちが無愛想に手続きを進める。


だがその裏側では、

明らかに別の流れが蠢いていた。


こちらを見定める目。

値踏みするような視線。


見えない糸が、じわりと足元に絡みついてくるような感覚。


 


――順調に見えて、どこかがおかしい。


 


スイは、無言のまま依頼書を手に取った。

セナの手を、そっと引いてカウンターを離れる。


この世界は、

そんなに簡単に、祝福なんてくれない。


そう思いながら、

静かに、歩き出した。


 


 


依頼を終え、荷物を届けた帰り道。


町の広場は、夕暮れに包まれていた。


日が傾き、瓦屋根の隙間から金色の光が漏れている。

石畳に落ちる影は長く伸び、

人々はその間を縫うように行き交っていた。


 


スイとセナは、広場を横切ろうとして足を止めた。


 


広場の隅、くずれた噴水跡のそばで、

数人の浮浪者たちが焚き火を囲んでいた。


ぼろ布を纏い、靴も履かず、

すすけた顔で、炎に手をかざしている。


 


誰もが、ここでは、彼らを見ないふりをして通り過ぎる。


けれど、その焚き火のまわりには、

この町の本音が、静かに滲み出していた。


 


スイたちが通りかかると、

浮浪者たちのひとりが、酒瓶を振りながら低く笑った。


 


「……聞いたかよ、あれ」


「どれだ?」


「ミレイダの地下さ。知らねえのか」


「地下?」


「“武器を売る市”があんだとよ。しかも、ただの武器じゃねえ」


焚き火が、ぱちりと音を立てた。


男は、うそぶくように続ける。


「――魂ごと、売るらしいぜ」


 


スイは、ふと、足を止めた。


セナもまた、手を止め、顔を強張らせた。


彼らは、続けた。


「名前も、全部、剥がしてな」


「そしたら、ただの道具だ。誰が使ってもいい、空っぽの武器よ」


「……金さえ出せば、なんでも買えるんだと」


浮浪者たちは、汚れた笑いを漏らし、また火を見つめた。


その目には、諦めと、わずかな羨望が滲んでいた。


 


スイは、ゆっくりとセナの手を握った。


冷えた小さな手。


セナは、何も言わなかった。


ただ、かすかに、スイの手を握り返した。


 


言葉は、いらなかった。


知りたくもない現実を、

もう知ってしまったから。


 


スイは、ゆっくりと広場を離れた。


浮浪者たちの笑い声が、背後に滲む。


夕暮れの光は、いつのまにか赤く濁り、

町の空気は、冷たい鉛のように重たくなっていた。


 


この町もまた、

名前を奪う側だった。


どこに行っても、

変わらないのかもしれない。


 


それでも。


 


スイは、心の奥で静かに誓った。


 


――守る。

――守り抜く。

たとえ、世界そのものが敵になろうとも。


 


歩き続けなければならない。

まだ、何も終わっていないのだから。


 

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