第17話: 違和感の積み重ね
それから、数日が過ぎた。
スイとセナは、朝に宿を出て、
昼には依頼をこなし、
夜には簡素な食事を取って休む――
そんな単調な生活を繰り返していた。
運んだ荷は、麦粉や織物。
駆除した魔物は、畑を荒らす小型の牙獣。
護衛した商隊は、小さな田舎町へ向かう貧しい一行だった。
どの仕事も、命に関わるようなものではなかった。
それでも、世界は確実に、彼らに小さな重みを刻み込んでいった。
何より、セナが変わった。
初めての討伐の夜、あれほど怯えていた彼女が、
今では、自ら武器に手をかける瞬間がある。
たとえ虚還ノ縫が、腕に痛みを走らせても。
スイは、それが嬉しかった。
けれど同時に、どこか怖くもあった。
何かを失っていないか――
そんな予感が、喉の奥にひっかかっていた。
*
ギルドの掲示板前には、今日も多くの冒険者たちが集まっていた。
依頼書がずらりと貼り出され、
それを見上げる背中が、いくつも並んでいる。
革鎧の男たち。
布をまとった旅人風の者たち。
剣や槍、弓――
それぞれが、それぞれの生きるための道具を手にしていた。
その隙間に、スイとセナも立っていた。
二人並んで、無言で依頼書を眺める。
スイは冷静に内容を読み取り、セナは小さく背伸びして、文字を追っていた。
周囲のざわめきの中で、ふと耳に引っかかる声があった。
「……また、あの新人たちか」
低い声。
ひそやかな、しかし悪意を含まない呟きだった。
「思ったより、使えるな」
「意外と根性あるじゃねえか」
別の声も、どこかから聞こえてくる。
直接話しかけられたわけではない。
名を呼ばれたわけでもない。
それでも、確かにスイたちは――認知されていた。
セナが、ちらりとスイを見上げた。
そして、気まずそうに、けれど確かに、口元を緩めた。
嬉しそうだった。
誰かに、存在を認められること。
名前を持たない孤児院の中では、得られなかった感覚。
それが、今、ほんのわずかに、手の中にある。
スイもまた、小さく息を吐いた。
悪くない。
たとえ、それが一瞬のものであったとしても。
セナは、掲示板に貼られた依頼書を指さした。
「……これ、どうかな?」
まだぎこちないけれど、
セナ自身が選ぼうとするその手つきに、
スイは微笑み返した。
「うん。行こう」
そうして二人は、また、歩き出した。
小さな一歩。
けれど確かな、一歩だった。
*
スイとセナは毎日地道に依頼をこなし続けた。
市場から薬草を運び、
畑を荒らす牙獣を追い払い、
町外れの商隊を小さな村まで護送する。
ひとつ、またひとつ。
小さな仕事を積み重ねるたびに、
町の人々の目が、わずかに柔らかく変わっていくのがわかった。
市場の老婆は、彼らを見かけるたびに微笑み、
若い商人たちは、通りすがりに「今日も頑張ってるな」と声をかけた。
「ちょっといい子たちだな」
そんな囁きが、広場の片隅で聞こえたこともあった。
セナは、最初こそ戸惑っていたが、
やがて、人々の何気ない言葉に、小さな笑顔を返せるようになっていた。
スイもまた、感じていた。
ようやく、何かを掴みかけている――そんな手応えを。
宿代を払い、簡素な食事を取り、それでも少しずつ、
路銀は溜まっていった。
無駄遣いをする余裕など、最初からなかった。
それでも、
懐に重みが増していくたびに、
「生きている」という実感が、静かに胸に灯っていた。
だが。
それは、
表面だけの話だった。
ギルドに戻り、次の依頼を探していたとき。
ふと、耳に引っかかるものがあった。
カウンターの奥、
書類をめくるふりをしながら、
職員たちが交わす、低く抑えた声。
「……例の剣の件、どうする?」
誰かがそう呟いた。
「まだだ。もう少し様子を見ろ」
別の声が、静かに応じる。
スイは、顔色ひとつ変えずに掲示板を見続けた。
だが、背筋が僅かに冷えた。
セナもまた、気づいたのだろう。
小さく身をすくめ、スイの袖を掴んだ。
いつもより、わずかに強く。
ギルド内のざわめきは、何も変わらないように見えた。
冒険者たちが依頼を選び、武具の手入れをし、
受付の女たちが無愛想に手続きを進める。
だがその裏側では、
明らかに別の流れが蠢いていた。
こちらを見定める目。
値踏みするような視線。
見えない糸が、じわりと足元に絡みついてくるような感覚。
――順調に見えて、どこかがおかしい。
スイは、無言のまま依頼書を手に取った。
セナの手を、そっと引いてカウンターを離れる。
この世界は、
そんなに簡単に、祝福なんてくれない。
そう思いながら、
静かに、歩き出した。
*
依頼を終え、荷物を届けた帰り道。
町の広場は、夕暮れに包まれていた。
日が傾き、瓦屋根の隙間から金色の光が漏れている。
石畳に落ちる影は長く伸び、
人々はその間を縫うように行き交っていた。
スイとセナは、広場を横切ろうとして足を止めた。
広場の隅、くずれた噴水跡のそばで、
数人の浮浪者たちが焚き火を囲んでいた。
ぼろ布を纏い、靴も履かず、
すすけた顔で、炎に手をかざしている。
誰もが、ここでは、彼らを見ないふりをして通り過ぎる。
けれど、その焚き火のまわりには、
この町の本音が、静かに滲み出していた。
スイたちが通りかかると、
浮浪者たちのひとりが、酒瓶を振りながら低く笑った。
「……聞いたかよ、あれ」
「どれだ?」
「ミレイダの地下さ。知らねえのか」
「地下?」
「“武器を売る市”があんだとよ。しかも、ただの武器じゃねえ」
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
男は、うそぶくように続ける。
「――魂ごと、売るらしいぜ」
スイは、ふと、足を止めた。
セナもまた、手を止め、顔を強張らせた。
彼らは、続けた。
「名前も、全部、剥がしてな」
「そしたら、ただの道具だ。誰が使ってもいい、空っぽの武器よ」
「……金さえ出せば、なんでも買えるんだと」
浮浪者たちは、汚れた笑いを漏らし、また火を見つめた。
その目には、諦めと、わずかな羨望が滲んでいた。
スイは、ゆっくりとセナの手を握った。
冷えた小さな手。
セナは、何も言わなかった。
ただ、かすかに、スイの手を握り返した。
言葉は、いらなかった。
知りたくもない現実を、
もう知ってしまったから。
スイは、ゆっくりと広場を離れた。
浮浪者たちの笑い声が、背後に滲む。
夕暮れの光は、いつのまにか赤く濁り、
町の空気は、冷たい鉛のように重たくなっていた。
この町もまた、
名前を奪う側だった。
どこに行っても、
変わらないのかもしれない。
それでも。
スイは、心の奥で静かに誓った。
――守る。
――守り抜く。
たとえ、世界そのものが敵になろうとも。
歩き続けなければならない。
まだ、何も終わっていないのだから。
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