第11話: 名無き夜に、名を刻む


 

朝が、来ていた。


けれど、それは“夜が明けた”というだけのことだった。


空は名もなく白み、風が淡く草を撫でていたが、そのどこにも“希望”という言葉はなかった。


 


スイは、熾火になった焚き火の前で、じっと手袋を見つめていた。


昨夜、ユマの糸によって繕われたそれは、黒く、静かに、指に馴染んでいた。


もはや“刻印を隠すため”の布ではない。


これは、“名前を守るため”の装い。


それが、彼にとっての出発の証だった。


 


隣では、セナがまだ浅い眠りの中にいた。


毛布を胸元で抱え込むようにして、呼吸は整っている。


記憶を失っても、この世界の真実だけは知っている彼女は――いま、“スイの隣”を選び続けてくれている。


それだけが、救いだった。


 


風が、湿った空気を運んできた。


焚き火の最後の火が、小さくはぜて、消えた。


スイはそっと立ち上がり、草の上を踏みしめる。


 


(……行こう)


 


振り返らず、俯かず。


彼の足音に気づいたのか、セナが目を覚ました。


「……朝?」


「うん、もう行こう。道が長くなる」


セナは小さく頷いた。


何も聞かず、何も詮索せず。


ただ、歩き出す。その足取りが、今日もスイの支えだった。


 


 



 


村の輪郭が、後ろに小さくなっていく。


踏み慣らされた道は次第に細くなり、やがて、草の背が高くなり始めた。


空は相変わらず、灰色のまま。


雲は重く、どこか遠くで雷鳴がごく小さく響いた気がした。


 


「……人の気配、少なくなってきたね」


セナの言葉に、スイは頷くだけで答えた。


ここから先は、誰もが避ける道。


街道から逸れたこの旧道は、地図にもろくに載っていない。


かつて孤児院に物資を届けていた“使い捨ての運搬路”――それが、この道の正体だった。


 


日が傾き始めた頃、森の縁に辿り着く。


木々が重なり合い、根がむき出しに伸びた暗がり。


鳥の声は遠く、虫の音すら聞こえなかった。


風は止み、空気がひどく重たい。


 


「今夜は……ここで、休もうか」


森の手前、開けた草地に小さな野営地を設ける。


焚き火を起こす手も、冷たく震えていた。


木の陰に背を預けて、スイは剣の鍔を握り直す。


カイの名が刻まれた、“夢切ノ剣”。


それだけが、彼の今を支えていた。


 


火の明かりが落ち着いた頃だった。


かすかに――“音”がした。


 


かさり。


 


落ち葉を踏みしめる、重く、湿った足音。


風が止まっているのに、草が揺れる。


獣の気配ではない。


“理性の欠片”すら感じさせない、ただの“餓え”だけを歩かせる異形の音。


 


セナの身体が、震えた。


目が合う。


何も言わない。


だが、それで十分だった。


 


スイは、立ち上がる。


右手に剣を持ち、左手を後ろへ伸ばす。


セナを守るように、背にかばう。


 


木々の間から現れたそれは、人とも獣とも言えない何かだった。


手足の形だけがかろうじて“人”に似ていた。


だが、目はなかった。口は裂け、皮膚は黒ずみ、骨が剥き出しになっている。


 


“名前を持たなかった命の、なれの果て”。


 


誰にも呼ばれず、記録もされず、ただ“破棄された存在”。


スイは、それを見て、ほんの一瞬――胸が痛んだ。


それでも、剣を構える。


 


「……君のことも、本当は、呼びたかった」


 


けれど、もう遅い。


もう、声は届かない。


 


その夜――


スイは、初めてこの世界と戦った。


そして知る。


名前のない命が、どれほど“この世界に満ちている”かを。


 


それは、すべての始まりだった。




 


風が、止んだ。


森の奥から現れた“それ”――ノーネームは、名前も形も持たないまま、地を這うように近づいてきた。


皮膚は破れ、骨が剥き出し、歪んだ腕が地面を引きずっている。


その輪郭はどこまでも曖昧で、けれど確かに“かつて人だった”痕跡を残していた。


 


スイは、剣を握る手に力を込めた。


“夢切ノ剣”。


ただひとり、自分に力を貸してくれた仲間の名を宿した、片手剣。


けれど――


(剣での、戦い方なんて……知らない)


心はそう叫んでいるのに、


体が、勝手に動いた。


 


ノーネームが突進してくる。


四肢を引きずりながら、だが動きは素早い。


人間だった名残など、最初の一歩で振り捨てられていた。


 


スイは、構える。


そして、斬る。


 


が、剣の軌道は荒く、体のバランスも悪い。


重みが乗らない。剣が振り回されている。


自分が、武器を振るっているのではなかった。


 


攻撃は、当たった。


刃がノーネームの肩を裂く。


血ではない、黒い液体が飛び散る。


だが――


倒れなかった。


 


(……一撃で、仕留められない)


 


セナのときのような――“虚還ノ縫”が放ったような、致命の一撃にはならない。


これは、ただの“打撃”だ。


技も、力も、足りない。


このままでは――


 


ノーネームが吼える。


それは声ではなく、ただの“喰らう欲望”だった。


黒い舌が伸び、歯のない顎が開く。


 


スイは、後ろに跳ぶ。


息が荒くなる。


視界が滲む。


体力と思考が、追いつかない。


 


(どうしたら……)


その瞬間――


 


右手の刻印が、熱を持った。


手袋の下から、眩い光が溢れる。


音もなく、“夢切ノ剣”が空中に消え――


代わりに、闇夜を裂くように一振りの“弓”が、その手に現れた。


 


“追星ノ弓(ツイセイノユミ)”。


 


背後で、八つの武器が静かに浮遊する。


その中から、今度は“ティナ”が答えた。


 


スイは、弓を手に、ノーネームとの距離を取る。


矢を……?


どうすれば――


けれど、考える前に、体が動いた。


 


視界の端に、光の矢が浮かび上がる。


指が、自然に弦を引く。


狙いを定めているのは、自分の目ではなかった。


感覚が、どこか別のところにあった。


 


(……ティナ……君が、教えてくれてるの?)


 


指が離れる。


矢が放たれた。


一筋の光が夜を裂き――ノーネームの脇腹に、突き刺さる。


吹き飛ばされるほどの衝撃ではない。だが、確かに“貫いた”。


 


ノーネームが、呻き声のような音を上げる。


その瞬間、第二射。


そして、第三射。


 


光の矢は、風のように軌道を変え、なおも追い続ける。


距離を取っても、姿を隠しても、矢は“対象”を見失わなかった。


まるで、彼女の“想い”が敵を追っているかのように。


 


四射、五射、六射――


矢の数が、増えていく。


スイの指は止まらない。


弓が脈動し、命じるままに矢が生み出されていく。


呼吸が速くなる。


視界が白む。


それでも、止めなかった。


 


矢が放たれるたびに、ノーネームの身体が裂け、倒れかけ、また立ち上がる。


だが、やがて――


 


最後の矢が、額の中心を撃ち抜いた。


 


ノーネームが、ゆっくりと崩れ落ちた。


地面に、黒い影が広がる。


風が、ようやく戻ってきた。


 


スイは、弓を下ろした。


手が、震えていた。


呼吸も、乱れていた。


だけど、確かに、“自分で戦った”という実感だけが残っていた。


 


夜はまだ深い。


だが、彼の中には――


たしかに、“名前を守るための一矢”が、刻まれていた。


 


 




 

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