第11話: 名無き夜に、名を刻む
朝が、来ていた。
けれど、それは“夜が明けた”というだけのことだった。
空は名もなく白み、風が淡く草を撫でていたが、そのどこにも“希望”という言葉はなかった。
スイは、熾火になった焚き火の前で、じっと手袋を見つめていた。
昨夜、ユマの糸によって繕われたそれは、黒く、静かに、指に馴染んでいた。
もはや“刻印を隠すため”の布ではない。
これは、“名前を守るため”の装い。
それが、彼にとっての出発の証だった。
隣では、セナがまだ浅い眠りの中にいた。
毛布を胸元で抱え込むようにして、呼吸は整っている。
記憶を失っても、この世界の真実だけは知っている彼女は――いま、“スイの隣”を選び続けてくれている。
それだけが、救いだった。
風が、湿った空気を運んできた。
焚き火の最後の火が、小さくはぜて、消えた。
スイはそっと立ち上がり、草の上を踏みしめる。
(……行こう)
振り返らず、俯かず。
彼の足音に気づいたのか、セナが目を覚ました。
「……朝?」
「うん、もう行こう。道が長くなる」
セナは小さく頷いた。
何も聞かず、何も詮索せず。
ただ、歩き出す。その足取りが、今日もスイの支えだった。
*
村の輪郭が、後ろに小さくなっていく。
踏み慣らされた道は次第に細くなり、やがて、草の背が高くなり始めた。
空は相変わらず、灰色のまま。
雲は重く、どこか遠くで雷鳴がごく小さく響いた気がした。
「……人の気配、少なくなってきたね」
セナの言葉に、スイは頷くだけで答えた。
ここから先は、誰もが避ける道。
街道から逸れたこの旧道は、地図にもろくに載っていない。
かつて孤児院に物資を届けていた“使い捨ての運搬路”――それが、この道の正体だった。
日が傾き始めた頃、森の縁に辿り着く。
木々が重なり合い、根がむき出しに伸びた暗がり。
鳥の声は遠く、虫の音すら聞こえなかった。
風は止み、空気がひどく重たい。
「今夜は……ここで、休もうか」
森の手前、開けた草地に小さな野営地を設ける。
焚き火を起こす手も、冷たく震えていた。
木の陰に背を預けて、スイは剣の鍔を握り直す。
カイの名が刻まれた、“夢切ノ剣”。
それだけが、彼の今を支えていた。
火の明かりが落ち着いた頃だった。
かすかに――“音”がした。
かさり。
落ち葉を踏みしめる、重く、湿った足音。
風が止まっているのに、草が揺れる。
獣の気配ではない。
“理性の欠片”すら感じさせない、ただの“餓え”だけを歩かせる異形の音。
セナの身体が、震えた。
目が合う。
何も言わない。
だが、それで十分だった。
スイは、立ち上がる。
右手に剣を持ち、左手を後ろへ伸ばす。
セナを守るように、背にかばう。
木々の間から現れたそれは、人とも獣とも言えない何かだった。
手足の形だけがかろうじて“人”に似ていた。
だが、目はなかった。口は裂け、皮膚は黒ずみ、骨が剥き出しになっている。
“名前を持たなかった命の、なれの果て”。
誰にも呼ばれず、記録もされず、ただ“破棄された存在”。
スイは、それを見て、ほんの一瞬――胸が痛んだ。
それでも、剣を構える。
「……君のことも、本当は、呼びたかった」
けれど、もう遅い。
もう、声は届かない。
その夜――
スイは、初めてこの世界と戦った。
そして知る。
名前のない命が、どれほど“この世界に満ちている”かを。
それは、すべての始まりだった。
*
風が、止んだ。
森の奥から現れた“それ”――ノーネームは、名前も形も持たないまま、地を這うように近づいてきた。
皮膚は破れ、骨が剥き出し、歪んだ腕が地面を引きずっている。
その輪郭はどこまでも曖昧で、けれど確かに“かつて人だった”痕跡を残していた。
スイは、剣を握る手に力を込めた。
“夢切ノ剣”。
ただひとり、自分に力を貸してくれた仲間の名を宿した、片手剣。
けれど――
(剣での、戦い方なんて……知らない)
心はそう叫んでいるのに、
体が、勝手に動いた。
ノーネームが突進してくる。
四肢を引きずりながら、だが動きは素早い。
人間だった名残など、最初の一歩で振り捨てられていた。
スイは、構える。
そして、斬る。
が、剣の軌道は荒く、体のバランスも悪い。
重みが乗らない。剣が振り回されている。
自分が、武器を振るっているのではなかった。
攻撃は、当たった。
刃がノーネームの肩を裂く。
血ではない、黒い液体が飛び散る。
だが――
倒れなかった。
(……一撃で、仕留められない)
セナのときのような――“虚還ノ縫”が放ったような、致命の一撃にはならない。
これは、ただの“打撃”だ。
技も、力も、足りない。
このままでは――
ノーネームが吼える。
それは声ではなく、ただの“喰らう欲望”だった。
黒い舌が伸び、歯のない顎が開く。
スイは、後ろに跳ぶ。
息が荒くなる。
視界が滲む。
体力と思考が、追いつかない。
(どうしたら……)
その瞬間――
右手の刻印が、熱を持った。
手袋の下から、眩い光が溢れる。
音もなく、“夢切ノ剣”が空中に消え――
代わりに、闇夜を裂くように一振りの“弓”が、その手に現れた。
“追星ノ弓(ツイセイノユミ)”。
背後で、八つの武器が静かに浮遊する。
その中から、今度は“ティナ”が答えた。
スイは、弓を手に、ノーネームとの距離を取る。
矢を……?
どうすれば――
けれど、考える前に、体が動いた。
視界の端に、光の矢が浮かび上がる。
指が、自然に弦を引く。
狙いを定めているのは、自分の目ではなかった。
感覚が、どこか別のところにあった。
(……ティナ……君が、教えてくれてるの?)
指が離れる。
矢が放たれた。
一筋の光が夜を裂き――ノーネームの脇腹に、突き刺さる。
吹き飛ばされるほどの衝撃ではない。だが、確かに“貫いた”。
ノーネームが、呻き声のような音を上げる。
その瞬間、第二射。
そして、第三射。
光の矢は、風のように軌道を変え、なおも追い続ける。
距離を取っても、姿を隠しても、矢は“対象”を見失わなかった。
まるで、彼女の“想い”が敵を追っているかのように。
四射、五射、六射――
矢の数が、増えていく。
スイの指は止まらない。
弓が脈動し、命じるままに矢が生み出されていく。
呼吸が速くなる。
視界が白む。
それでも、止めなかった。
矢が放たれるたびに、ノーネームの身体が裂け、倒れかけ、また立ち上がる。
だが、やがて――
最後の矢が、額の中心を撃ち抜いた。
ノーネームが、ゆっくりと崩れ落ちた。
地面に、黒い影が広がる。
風が、ようやく戻ってきた。
スイは、弓を下ろした。
手が、震えていた。
呼吸も、乱れていた。
だけど、確かに、“自分で戦った”という実感だけが残っていた。
夜はまだ深い。
だが、彼の中には――
たしかに、“名前を守るための一矢”が、刻まれていた。
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