旅立ち編
第9話: 僕がこの世界にいる理由
門が、きぃ、と音を立てて揺れた。
リール孤児院の外門――
どこにでもある鉄柵の簡素な構造だったけれど、長い時間、僕たちの世界の“境界”だった。
その門の隙間から、微かに光が差し込んでいる。
けれど、その光は――まるで“何も知らない”外の世界の無垢な目のように、ただこちらを照らしているだけだった。
「……閉めるよ」
僕はそう呟いて、両手で門の取っ手に触れた。
冷たかった。
ずっとここにいたのに、こんなにも冷たいなんて――まるで僕の手を拒むようだった。
ぎぃ、と鉄の擦れる音が静寂に染み込む。
音が鳴るたびに、胸の奥がざらついていく。
カイがいつも寄りかかってた門柱。
ノアがぶらさがってた鉄格子。
ユマが見送りに来てくれた朝。
ティナが「早く行こうよ」って門の上から叫んだ夕暮れ。
メイが、門の前でしゃがんで子猫に声をかけてたときの横顔。
リクが、ただ黙って――門の前に立ってた背中。
すべてが、この鉄の門に、刻まれていた。
もう誰もここを通らない。
誰もこの門の奥から「おかえり」って言ってくれない。
それでも、僕は――
「……さようなら」
音を立てて、門が閉じた。
その瞬間、胸の中で何かが小さく、確かに終わった。
がしゃり、と鍵を掛ける。
錆びついた鍵は硬くて、少しだけ力を入れなければ動かなかった。
小さな手の中で、鍵が回る感触が骨に染みる。
「……」
閉ざされた門を、しばらく見つめた。
それから、ポケットの中の鍵を、ゆっくりと取り出す。
リクが残してくれた、小さな金属のかけら。
もう、使うことはない。
そっと、門の根元の土に埋めた。
彼の“意志”を、ここに還すように。
「ありがとう、リク」
誰に聞かれることもなく、小さくそう呟く。
その言葉だけが、風に吸い込まれていった。
「……終わったんだね」
後ろから、セナの声がした。
その声には、かすかに息の揺れがあった。
僕は振り返る。
彼女は立っていた。門の影の中で。
小さく、でもまっすぐに。
「全部、じゃないけど。私の中の記憶は、もう戻ってこないと思う」
ぽつりと、そう言った。
「でも、それでも……ここにあったものの全部が、消えたわけじゃないって、そう思うの」
僕は、なにも言わなかった。
言えなかった。
彼女の声は、どこまでも静かだった。
「私、覚えてないの。あなたと何を話したか、どんな日々を過ごしたか。名前を呼んだことも、たぶん覚えてない」
「でもね、あなたがこの門を閉めるときに、泣いてないように見えたの」
「その背中が――すごく、強くて、哀しくて」
「……どうしてかわからないけど、ただ、“一緒にいたい”って、思ったの」
彼女の目が揺れていた。
記憶がなくても、心が残っている。
言葉を忘れても、感情は手放せない。
その姿が、ひどく優しくて、ひどく残酷だった。
僕は、視線を落とした。
その足元には、踏みしめた土の上に、小さな足跡が並んでいた。
そのすぐ隣に、セナの足跡が重なっている。
これから、また踏みしめる道がある。
名を残すための旅路。
彼女の記憶がいつ戻るかも、わからない。
でも――
隣にいてくれるその理由だけで、今は、十分だった。
*
夜が、また、やってきた。
かすかな焚き火の明かりが、周囲を揺らしている。
薪がぱちりと弾けるたびに、橙の光がスイとセナの影を浮かび上がらせる。
ふたりは、小さな丘の上に腰を下ろしていた。
近くに人家はない。風の音と虫の声、それからときおり火のはぜる音だけが、世界を満たしていた。
その夜は、星が出ていなかった。
雲が濃く、月明かりさえ地上に届かない。
だからこそ、焚き火だけが、この夜の“名前”のように、確かにここにあった。
セナは、言葉少なに火を見つめていた。
火が苦手なのか、落ち着くのか、それは分からない。
でも、彼女の瞳の奥には――迷いのようなものがあった。
スイは、少しだけ口を開いた。
「……眠れない?」
セナは、かすかに頷いた。
「スイくんこそ、平気なの?」
「うん……」
そう言いながらも、スイは目を閉じた。
火の音が耳に滲む。煙の匂いが、肺の奥に残る。
そして――
脳裏に、子どもたちの“声”が流れ込んでくる。
彼らが眠っていたときの寝息。
隣で笑っていたときの声。
夢を語るときの小さな囁き。
すべてが、もうここにはない。
けれど、自分の中に――“在る”。
「……怒ってるんだ、僕は」
ぽつりと、そう呟いた。
セナが、ゆっくり顔を向ける。
「この世界が、“名前を持たない子”を切り捨ててきたことに。
“存在の証”を奪われることが、どれだけ残酷かなんて、誰も気にしてなかった。
ただ、力があるか。価値があるか。使えるかどうか。
それだけで、子どもたちは選ばれて、壊されて、忘れられて――」
スイは拳を握る。
火の光が、その手に浮かぶ“刻印”をかすかに照らす。
「僕は、その手で、彼らを“使った”。
助けられなかった命を、武器に変えて、生き延びた。
でも、それでも、誰よりも知ってる。
彼らがどんなふうに生きたかったのか。
どんなに誰かに名前を呼んでもらいたかったのか」
声が、少し震える。
でもその震えを隠そうとはしなかった。
「だから、誓ったんだ。
もう、誰にも奪わせない。
僕は――この手で、名前を奪う世界を、断ち切る。
それが、彼らの名前を“守る”ってことだと思ったから」
言い終えてから、焚き火の火が、また小さく跳ねた。
その音が、誓いに呼応したかのように、ぱちり、と夜に響いた。
沈黙が、しばらく降りた。
セナは、ずっと黙って聞いていた。
そして、火を見たまま、ぽつりと呟いた。
「……名前って、そんなに大事なものだったんだね」
スイは、驚いたように顔を向ける。
けれど、セナの目に浮かんでいたのは、哀しみでも罪悪感でもなかった。
それは、どこか――純粋な“理解しようとする意志”だった。
「私、今はまだ……“スイくん”のこと、よく思い出せない」
「けどね、スイくんが怒ってる理由は、ちゃんとわかるよ」
「すごく、すごく……大事な人を、奪われたんだよね」
「……うん」
スイは小さく答えた。
「私、自分の記憶を失ってるのに、どうして“そばにいたい”って思ったのか、不思議だったの」
「でも、今わかった気がする」
焚き火が揺れる。
その揺れの向こうで、彼女は微笑んだ。
「君が名前を大切にしてるから、私は君のそばにいたいって思えたんだと思う」
「……私も、きっと誰かに、名前を呼んでもらえたことが、あったんだよね」
スイは、何も言えなかった。
言葉にならなかった。
でも、ただ、その場から動けなかった。
彼女の言葉が、胸に刺さったまま、熱を灯していた。
火が、静かに燃え続ける。
誰の名前も呼ばない世界の中で――
この焚き火だけが、ふたりの“祈り”を照らしていた。
スイは、心の中で誓い直す。
絶対に、この手で、次の名前を守り抜く。
セナの名も、子どもたちの名も。
そして、まだ呼ばれていない“誰かの名”も。
たとえ、世界そのものを敵に回すことになっても。
そのための力なら――
“罪”であっても、背負っていける。
*
火が、静かに揺れていた。
ぱち、という小さな音が、夜の深さを際立たせる。
ふたりの間にはもう、言葉はなかった。
語るべきことは語られ、沈黙はもはや、居心地のよい“祈り”のようだった。
スイは、焚き火の前に膝をついた。
目を閉じて、静かに、息を整える。
そして、ひとつ、口を開いた。
「……カイ」
その名前を呼ぶ声は、どこまでも静かで、澄んでいた。
「君の剣は、まだ夢を切り開こうとしてる。だから、僕が続きをやるよ」
「ノア」
「君が奏でていた音が、世界を撹乱して、そして救っていたんだ。今度は僕が、それを響かせていく」
「ティナ」
「君の矢は、誰かを追い続けてる。だから、僕は止まらない。君の執念ごと、ちゃんと飛ばしてみせる」
「ユマ」
「君の糸が、記憶と痛みを結んでくれてた。僕も、痛みを抱えながら、人と繋がってみるよ」
「リク」
「君が守ってくれたこの命で、僕はまだここに立ってる。君のまっすぐを、折らせない」
「メイ」
「君の優しさは、支える力だった。僕も、誰かの支えになれるように、生きていくよ」
「ナギ」
「風は君の声だった。封じられても、今も僕の中で吹いてる。静かな勇気を、ありがとう」
「エナ」
「祈るように笑ってた君の目を、僕は忘れない。君が見ようとしてた“光”を、ちゃんと見つけてみせる」
呼び終えたとき、火がひときわ大きく揺れた。
それはまるで、誰かが“確かに聞いている”とでも言うように。
スイは、そっと目を開けた。
夜の空はまだ雲に覆われていたが、その奥に、どこかで光っている星があるような気がした。
セナは、何も言わなかった。
ただ、火の向こうで微かに目を伏せ、静かに手を合わせていた。
それだけで、十分だった。
スイは立ち上がった。
静かに夜を見つめる。
そして、最後に――
「僕がこの世界にいる意味は、たった一つ」
「――名前を、記すために」
その声は、夜に溶けていった。
けれど、焚き火の橙は確かに、それを照らしていた。
そして、始まる。
名前を呼ぶ旅が――いま、ここから。
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