第8話: 名残の刃


夜が明けた。


けれど空は、決して明るくなかった。


灰を流したような曇天が、ゆっくりと世界を覆っている。太陽は雲の奥に隠れ、朝の光は地上まで届かなかった。


中庭に立つ僕の背には、六つの小さな土の丘。


昨日まで、あの場所には笑い声があった。


名前を呼び合う声があった。


手を繋ぐぬくもりが、確かにそこにあったはずだった。


でも――


 


いま、そのどれもが、ない。


 


風すら吹かない朝の中で、草はうつむき、花は閉じたまま眠っていた。空気だけが、静かに通り過ぎていく。冷たいとも温かいともつかない、曖昧な空気。それは、まるでこの世界が“哀しみ方すら忘れた”かのような、沈黙の気配だった。


 


(僕は――奪われた“名前”を、知らなかった)


 


夢切ノ剣。響幻ノ輪。綴環ノ糸。追星ノ弓。真砕ノ槌。紡光ノ杖。


どれも、彼らを“形”にした名だった。


でも、それは“与えられた名前”だった。


彼らが本当に呼ばれていたはずの名前を、僕は知らない。


一度も聞いたことがないまま、その存在を、魂ごと喰ってしまった。


 


――ティナの矢が、どこまでも誰かを追いかけていたこと。


――ユマの糸が、痛みと心を繋いでいたこと。


――ノアの輪が、誰かに夢を見せていたこと。


――カイの剣が、まだ見ぬ未来を切り拓こうとしていたこと。


――リクの槌が、欺瞞を砕いていたこと。


――メイの杖が、誰かを支え続けようとしていたこと。


 


すべて、もう届かない。


もう、何も返せない。


名前を、想いを、魂を――全部、僕の中に沈めてしまった。


 


それが、僕の力だった。


そういう“形”だった。


何かを得るたびに、誰かを喪う。


望んで選んだわけじゃない。


けれど、現にそうして、“僕は生き延びた”。


 


(この先も……きっと、また奪ってしまう)


その予感が、じっとりと胸に張り付く。


この右手の中で、彼らの魂は武器となり、力になった。


戦うために呼び出せば、そのたびに、あの名前たちが脳裏に響く。


彼らの声が――“僕の勝利のために”叫ばれる。


 


それが、怖かった。


また何かを壊してしまうのではないかという恐怖。


大切なものを、自分の手で汚してしまうのではないかという罪悪。


 


けれど。


それでも、そうであっても――


 


「……もう、誰にも奪わせない」


 


呟いたその言葉は、声になった瞬間に霧のように溶けた。


けれど、胸の奥には、しっかりと刻まれた。


 


これは贖罪ではない。


これは使命でもない。


誰かに与えられた“役割”ではない。


 


これは――僕自身が、“戦う”と決めた初めての選択だった。


 


武器になった彼らの名を、無駄にしないために。


誰にも名前を奪わせないために。


もう、誰かが“名前も残さず死んでいく”ことがないように。


 


僕は、刃を握る。


それが、もう“彼らの声”であることを理解しながら。


 




空気が、また一段と冷たくなっていた。

吐息が白むほどの寒さではないのに、肺の奥まで凍えていくような感覚だけが残っている。


スイは、そっと手を伸ばした。

目の前に横たわるふたつの亡骸――ナギとエナ。

すでにその身体には、生のぬくもりは残っていない。


でも。


(……まだ、魂の残り香がある)


その確信があった。

自分の中に眠る六つの武器が、静かに共鳴する。

それぞれの記憶が、ときおり脳裏を掠めるようにして、名もなき映像を残していく。


カイの夢。ノアの声。ティナの視線。ユマの祈り。リクの手。メイの笑顔。

全部が、スイの中で生きている。


だからこそ、わかるのだ。

このふたりも、まだ「消えていない」。


スイは手のひらを、そっと地面にかざした。

そこに眠るふたつの小さな命へと、静かに語りかける。


「……僕は、この中で眠っている子たちを、誰よりも知ってる」


唇が、震える。

でも声はまっすぐだった。


「どんな声で笑って、どんな夢を語って、どんな風に生きたかったのか――全部、見てきた」


掌が、光を帯びる。

六つの武器が、背中で静かに回り始める。

まるでこれから仲間を迎えることを、祝福するように。


「だから……もう、誰にも奪わせない」


小さな決意が、胸に灯る。

それは炎ではない。もっと静かで、もっと冷たくて、でも確かな“灯(ひ)”。


「せめて僕の中だけでも、“彼らの名前”が、生きていられるように」


そう言って、スイは右手を差し出した。


ナギの亡骸へ。

そして、エナの亡骸へ。


 


次の瞬間――空気が、震えた。


 


『個体名:ナギ。魂の残滓を代償に――封瞳ノ環(フウトウノワ)、掌握を確認』


 


頭の中に響く、無機質な声。

それと同時に、ナギの身体が、ゆっくりと――結晶化を始めた。


皮膚が、髪が、瞼が。

ひとつずつ、光の粒に変わっていく。


まるで眠るように。

まるで、もう誰にも呼ばれることのないまま、“封じられた名”のまま。


最後に、胸の中心から――銀色の、折り畳まれた鉄扇が現れた。


閉じれば静けさを、

開けば刃を。


封瞳ノ環(フウトウノワ)。

瞳を封じられ、口を縫われ、それでも生きようとした少女の、“沈黙の刃”。


スイはその武器を、そっと手に取った。

ひやりとした感触が、掌を刺す。


(……ありがとう)


ただ、心の中でそう言った。


 


続けて、もう一つの声が――


 


『個体名:エナ。魂の残滓を代償に――燈祈ノ標(トウキノシルベ)、掌握を確認』


 


やわらかな光が、ふたたび灯った。


エナの身体が、刃のようにひとつひとつ崩れていく。

それはまるで、祈りの灯が静かに消えていくようだった。


血と肉のかけらは、音もなく砕け、風に舞うように空間へと消えていく。


残ったのは――

無数の節を持つ、美しい蛇腹剣。


連なった刃の一つひとつに、

かすかな光が宿っている。


まるで、それぞれが“誰かを照らす小さな祈り”のように。


燈祈ノ標(トウキノシルベ)。

その刃は、声を奪われてもなお“祈り”を止めなかった少女の、永遠の導きだった。


 


ふたつの武器が、スイの背に加わる。

六つの輪の中に、新たに加わる“二つの円”。


これで――八つになった。


 


その光は、やがて沈黙の中へと溶けていく。

朝が近づいているのに、空はまだ灰色のままだった。


それでも、確かに“名前”は、ここに在る。


もう誰にも呼ばれない名。

もう誰にも覚えられない魂。


だけど、スイの中にだけは――生きている。


 


静かに、彼は目を閉じた。

そのまぶたの裏に、ナギの声が、エナの祈りが、確かに焼きついていた。



その日、スイは――


二つの新たな武器を、胸元に受け取った。


『封瞳ノ環(ふうとのわ)』


『燈祈ノ標(とうきのしるべ)』


ひとつは、誰にも見られることなく口を縫われ、泣くことすら赦されずに奪われた魂。

もうひとつは、名前さえ残らぬまま、役割すら与えられずに“失敗作”として処理された魂。


ナギとエナ。


二人の記憶が、武器の中に刻まれていた。


鋼の輪が、風の音を孕んで回るたびに――


蛇腹の刃が、静かに空気を裂くたびに――


スイの内側に、彼女たちの“生きた日々”が流れ込んでくる。


ナギは、静かな子だった。


目を合わせるのが苦手で、話すときはいつも小声だった。


けれど、ふとした拍子に笑う。


それは、音よりも先に“風”のように頬を撫でる、柔らかい笑顔だった。


──「人と喋るの、苦手なんだ。だから、代わりに風の音を聞いてたんだ」


誰かの言葉に割って入ることができず、いつも一歩引いていた。


でも、それは決して後ろ向きではなく、


「風は、みんなの声をちゃんと運んでくれるから」


と、ただ、静かに、そう言っていた。


彼女が最後に遺した音は、聞こえなかった。


けれど、“封瞳ノ環”が回るたび、確かに風が囁いていた。


──“わたしは、ここにいるよ”と。


エナは、まるで陽だまりのような子だった。


みんなの輪の外で、傷ついた子にそっと手を伸ばしてくれる。


言葉ではなく、祈るような手つきで、包み込むような仕草で。


「人の心には、光があるんだよ」


──「でもね、それは誰かに見つけてもらわないと、輝けないの」


彼女は、誰かの光になるために、生きようとしていた。


けれど、あの日――


魂を抜かれたエナの体は、もはや何も照らさなかった。


それでも、“燈祈ノ標”の先端に揺れる光だけが、彼女の記憶を宿していた。


──今も、まだ誰かを照らそうとしている。


スイは、膝をついていた。


ふたつの武器を前にして、呼吸ができなかった。


胸が痛かった。喉が焼けた。心臓が、誰かに握られているみたいに、軋んだ。


「……僕は、この中で眠っている子たちを、誰よりも知ってる」


「どんな声で笑って、どんな夢を語って、どんな風に生きたかったのか――全部、見てきた」


「だから……もう、誰にも奪わせない」


「せめて僕の中だけでも、“彼らの名前”が、生きていられるように」


それは、祈りではなかった。


贖罪でもなかった。


“生き残った者”としての、責任。


自分が、彼らの魂を宿してしまった以上――


自分が、すべてを引き受けるしかない。


足音が、近づいてくる。


「スイくん……」


セナの声だった。


けれど、スイは振り返れなかった。


「ごめん……少し、時間を……」


視界が滲んでいた。


それでも、背後からそっと伸びてきた手が、スイの肩に触れた。


「行くんでしょ」


セナの声は、とても静かだった。


「――どこへ行くか、私は知らない」


「君が誰だったのかも、まだ思い出せない」


「でも、君が泣いてる理由だけは、わかる気がする」


「だから……」


彼女は、言った。


「一緒に行かせて。きっと、私にも“償いたい”何かがあるんだと思うから」


スイは、ゆっくりと振り返った。


そこにいたのは、すべてを忘れてしまったはずのセナだった。


けれど――


彼女の目には、確かに“誰かを救いたい”という祈りが宿っていた。


(……君は、やっぱり)


例え、名前を思い出さなくても。


魂の奥で、まだ“誰かを護りたい”と思えるなら。


「ありがとう」


スイは、小さく笑った。


でもその笑みは、決意と、別れと、痛みが滲んだものだった。


この世界には、まだ“奪われたままの名前”がある。


忘れられ、壊され、消されたまま、誰にも呼ばれないまま終わった魂が、まだ――ある。


スイは、それを探す旅に出る。


それは、復讐の旅でも、赦しの旅でもない。


魂を、名を、“生きた証”を、誰かの記憶に刻むための旅だ。


誰の記憶にも残らなかった命を、せめて――


この手で、記すために。


そして、世界が選別を許さないのなら。


名を持つ者だけを生かすという“律”が、この世界を支配しているのなら。


スイはその“律”に、最後まで抗ってみせる。


たとえ、最期に自分という存在が――


この世界から消えてしまうとしても。

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