第7話: 【始まりノ檻】――魂を縫われた実験室より
夜が、静かに明けようとしていた。
灰色の空の下で、空気だけが先に目を覚ましていた。
朝焼けの気配はまだなく、世界はどこまでも沈黙に包まれていた。
中庭には、六つの小さな土盛りが並んでいる。
かつて彼らが遊び、笑い、駆け回っていた場所。
その土は、踏み荒らされ、ところどころに血と泥の斑が残っていた。
そこに――
花束を、添えた。
草花を束ねたものだった。
どこからか運んできたわけではない。
この場所に、かつて根付いていたもの。
芽吹きかけたまま誰にも気づかれず、踏み潰され、ちぎれ、地面に伏していた茎や葉。
それを一つずつ拾い集め、手のひらの中で形を整えていく。
葉はすでに乾きかけていて、触れるたびにざらりと音を立てて欠けた。
土の香りと血の臭いが、手のひらにこびりつく。
それでもスイは、編むように指を動かし続けた。
最後に結んだのは、枯れかけた一本のつる草。
どこかで見たような気がした。
でも名前は、思い出せなかった。
それでいい。
もう名前を呼ばれることもない、その子たちのための、無名の花束。
ひとつ、ひとつ。
彼らの名を思い浮かべながら、土の上に置いていく。
カイ。ノア。ティナ。ユマ。リク。メイ。
魂すらもう、外には残っていない。
この地表に眠っているのは、“器”の抜け殻さえなかった子もいる。
それでも、彼らの居場所をつくってやりたかった。
それが、残された者の――せめてもの祈りだった。
足元の土が、かすかに軋む。
隣で静かに膝をついていたセナが、手を合わせて目を閉じた。
「……スイくん」
彼女は静かに呼びかけた。
その声は、どこかで風を切ったような、淡い揺らぎを帯びていた。
「……院長先生はもう、居ない。だから……」
彼女は目を開け、僕を見た。
「――ついてきて」
そして、ふたりは歩き出す。
あの日、リクが倒れていた場所へ。
*
院長室までの道は、異様なほど静かだった。
崩れた廊下、剥がれた壁紙、ひび割れた窓。そのすべてが、夜の惨劇の証人だった。
けれど、誰も語らなかった。音ひとつない世界の中で、足音だけが、鈍く響いた。
セナは何も言わなかった。
ただ先を歩く背中が、揺れていた。
迷いも、ためらいもない足取りだったのに、なぜか不安に見えた。
院長室の扉は、半開きになっていた。
指先で軽く押すと、蝶番の錆びた音も立てず、静かに開いた。
中は――空っぽだった。
書棚も、机も、椅子もない。
引き出しごと消えた整理箱、剥がされたカーテン。
壁に掛かっていたはずの時計すら、跡形もなく姿を消していた。
「……何も、ない……」
呟いた声が、虚しく部屋に吸い込まれた。
まるで最初から、誰もここに住んでいなかったかのような空虚。
だけど、床だけは知っていた。
誰かが血を流し、何かを引きずり、苦しみながら抵抗した痕跡だけが、濁った色で残っていた。
セナは無言で、部屋の奥――窓際に残された、唯一の物体へと歩み寄る。
床に落ちていた、小さな冊子。
表紙は半分ちぎれ、乾いた血が広がっていた。
綴じ紐がほどけ、ページは乱れ、紙の隙間には小さな指の跡が染みていた。
「これ……」
スイが声をかける前に、セナはその本を拾い上げた。
そして、無言のまま、こちらに差し出してくる。
「……これは……?」
指先が触れた瞬間、本が冷たくて、ひどく軽かった。
それなのに、掌が震えた。
「リクが、命を懸けて残したものだよ」
セナの声が、背中から降ってきた。
「リクが……?」
目を見開いたスイの表情に、彼女はゆっくりと頷いた。
「私がリクを見つけた時……もう、息はなかった。
でも、彼の手は……この本を、握ってたの。
それだけは、絶対に離さなかったんだと思う」
その言葉を聞いても、スイの指はページをめくれなかった。
呼吸が苦しい。
喉が詰まり、目の奥が熱を帯びる。
そんなスイの横顔を見て、セナは少しだけ目を伏せた。
そして――静かに、語りはじめる。
「……ねえ、変だと思ってたんだ。ずっと前から。
みんな、“名前のない子”だったのに、時々……どこかへ連れていかれて、帰ってこないことがあった」
「先生が“あの部屋”の鍵を持ち歩いてて、誰にも開けさせなかった。
だから私……一度だけ、中を覗いたことがあるの」
「……そのときの匂いだけは、今でも忘れられない。
焦げた金属と、腐った肉の混じった匂い。
奥からずっと響いてた、機械音みたいな……“何かを壊す音”」
彼女の目が遠くを見る。
「その夜から、私は夢を見るようになった。
誰かの叫び声が響いて、誰かが“なにか”に変わっていく夢。
自分の骨が、道具みたいに抜かれていく夢……」
「でもそれが夢じゃなかったんだって、気づいたの。
……名前を思い出せなくても、その匂いと音は、ずっと、身体の中に残ってたから」
スイは、言葉を失っていた。
本を開いた指先が震えていた。
ページの間に挟まっていたのは、血で滲んだ記録用紙。
そこには――
子どもたちの名前の横に、無機質な「道具コード」が並んでいた。
・個体名:ノア
・道具抽出日:第4検体群・報告済
・魂安定率:未達(40%)→実験失敗→隔離
・個体名:カイ
・道具抽出日:第3検体群・報告済
・魂歪曲反応:有(+12)→送付対象指定済
そしてその最下段には、こう記されていた。
「送付先:レヴェルト=総武開発局」
(……魂を“抜かれた”んだ)
彼らが「まだ道具をもらえていない」と思っていたその裏で。
“魂だけ”を奪われ、抜かれた子どもたちがいた。
名前ごと、記録ごと、すべてを奪われた上で、
どこか遠くの“誰かの手に”渡っていた。
彼らの魂は、知らない誰かの武器として、使われている。
生きていた痕跡すら残らないまま、
ただの“部品”として――。
ページの端に、ひときわ強く押し付けられたインクがあった。
その走り書きは震えていて、かすれていた。
でも、確かにこう書かれていた。
『僕たちは、“道具”なんかじゃない』
スイの手が、そこで止まった。
それ以上ページを捲ることができなかった。
胸の奥に沈んでいた何かが、どくん、と波打つ。
それが、リクの最期の言葉だった。
彼は、自分が“道具”として終わることを知っていた。
それでも、誰かに伝えようとした。
それでも、“名前”を残そうとした。
――スイは、何も知らなかった。
みんなを救うつもりだった。
誰も奪わせないつもりだった。
けれど――
その“誰か”は、もう最初から奪われていた。
名前を。
魂を。
存在の意味を。
そして、“生きる理由”すら。
リクは、それを知った上で――この本を、残した。
最後の力で、誰かに読まれることを信じて、託した。
「……ごめん」
声が、こぼれた。
「僕は……知らなかった……知らなかったんだ……」
拳が、震えていた。
セナは、何も言わなかった。
ただ、静かに隣に座り、目を閉じていた。
その沈黙が、慰めだった。
そして同時に、赦されない痛みでもあった。
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