OLとおじさんの恋「OLとおじさんの恋愛小説です」

浅野浩二

第1話

電車の中で居眠りをしている人は、夢とうつつの間の状態であり、眉を八の字にして、苦しそうな顔して、コックリ、コックリしてる。女の人だった。OLらしいが、英会話のテキストブックを持っている。きっと、海外旅行へ行くためだろう。となりには、50才くらいの、会社の中堅、(か、重役かは知らない)の、おじさんが座っている。とてもやさしそうな感じ。また、おじさんは、この不安定な状態をほほえましく思っている様子。彼女は、きっと今年、短大を卒業して就職したばかりなのだろう。まだ学生気分が抜けきらない。とうとう彼女は、おじさんに身をまかせてしまった形になった。彼女の筋緊張は完全になくなって、だらしなくなってしまった。口をだらしなく開け諸臓器の括約筋はゆるんだ状態である。脚もちょっと開いている。(とてもエロティック)おじさんは、いやがるようでもなく、かといって少しも、いやらしい感じはない。(ゆえに、この不徳はゆるされるのダ)

おじさんは山野哲男という名前で湘南台に家があり、妻と一人息子がいる。息子は東北大学医学部の6年生で来年、卒業である。だから彼女はおじさんの息子と同い年くらいの年齢なのである。

この電車は、次の駅(上大岡)で降りる人が多い。彼女もそこで降りる人かもしれない。それで、おじさんは彼女を少しゆすった。

「もし、おじょうさん」

彼女は、よほど深いねむりに入ってしまったらしく、数回ゆすった後に、やっと目をさまし、首をおこした。彼女はまだポカンとした表情で、半開きの口のまま、ねむそうな目をおじさんに向けた。おじさんが微笑して、

「だいじょうぶですか。次、上大岡駅ですよ」

と言うと彼女は、やっと現実に気づいて真っ赤になった。おじさんのやさしそうな顔は彼女をよけい苦しめた。彼女はうつむいて、

「あ、ありがとうございます」

と小声で言った。彼女は膝をピッタリ閉じて英会話のテキストをギュッと握った。彼女は、まるで裸を見られたかのように真っ赤になっている。おじさんは、やさしさが人を苦しめると知っていて彼女に、ごく自然な質問をした。

「英会話ですか?」

彼女は再び顔を真っ赤にして、

「ええ」

と小声で答えた。

「海外旅行ですか?」

つい、おじさんの口からコトバが出てしまう。彼女はまた小声で、

「ええ」

と答えた。

「ハワイでしょう」

「ええ」

この会話は、おじさんの自由意志というよりライプニッツの予定調和だった。この時、彼女の心に微妙な変化が起こった。きわめて、自然な、そして、不埒ないたずらである。彼女は早鐘を打つ心とうらはらに、きわめて自然にみえるよう巧妙に、コックリ、コックリと、居眠りをする人を演じてみた。そして、とうとう、おじさんの肩に頭をのせた。おじさんは少しもふるいはらおうとしない。安心感が彼女をますます不埒な行為へいざなった。彼女は頭の重さを少しずつ、おじさんの肩にのせて、さいごは全部のせてしまった。そして、おじさんにべったりくっついた。でもおじさんは、振り払おうとしない。彼女は生まれてはじめての最高の心のなごみを感じた。

(こんな、やさしい、おじさんと、ずーとこーしていられたら・・・)

いくつかの駅を電車は通過した。その度に人々のおりる足音がきこえた。しかしその足音もだんだん少なくなっていった。

・・・・・・・・・・・・・

やがて電車は終点の湘南台駅に着いた。

「もしもし。お嬢さん。終点の湘南台駅ですよ」

おじさんがお嬢さんの肩を揺すった。

「あ、有難うございます」

彼女は狸寝入りをしていたのだが、あたかも、おじさんに起こされたように演じた。

彼女はペコペコと頭を下げてお礼を言った。

「終着駅ですけれど大丈夫ですか?降りる駅を乗り越してしまいませんでしたか?心配していたんですけれど、あなたがあまりにも気持ちよさそうに寝ているので、つい声をかけて起こしてしまうのをためらってしまっていました。それと・・・ちょっと私もあなたのような奇麗な人に触れられているのが心地よくて・・・ははは・・・つい言えませんでした」

おじさんは屈託ない表情で笑った。

「いえ。このターミナルの湘南台駅が私の降車駅です。どうも有難うございました」

彼女はペコリと頭を下げた。

「そうですか。それはよかった」

そう言って、おじさんは立ち上がった。彼女も立ち上がった。

そして二人ならんでエスカレーターに乗って改札口に向かった。

二人はSUICAで改札を出た。

「夜道は暗いですから気をつけて下さい」

そう言って、おじさんは東口に向かって歩き出した。

「あ、あの。どうも有難うございました」

彼女は少し頬を赤らめて礼を言い西口の出口に向かって歩き出した。

・・・・・・・・・・・

ピンポーン。

おじさんは家に着くとインターホンを押した。

「はーい」

家の中から妻の声がしてパタパタと玄関に向かう足音が聞こえた。

玄関の戸が開いて妻の悦子が顔を出した。

「お帰りなさい」

「ただいま」

夫は靴ベラで革靴を脱いで家に上がった。

そして居間のソファーに座った。

「お帰りなさい。あなた。今日は遅かったわね。何かあったの?」

妻が聞いた。

「いやね。アメリカでトランプ大統領が再び選出されただろう。各国に高い関税を課すと言っているからね。我が社としては、どういう対策で対抗するかという臨時の会議があってね。それで遅くなったんだ」

「そうだったの」

「ああ。悦子。水をくれ」

言われて妻の悦子は台所に行ってコップに冷水を入れて持ってきた。

「はい。あなた」

夫は妻の持ってきた水を受けとってゴクゴクと飲んだ。

「それはそうと。あなた。会社の健康診断の結果はどうだった?」

「コレステロールが260と高かったよ。前回は240なのにさらに上がってしまったな。体重も2kg増えたよ」

夫は笑いながら言った。

「あなたは焼肉が好きだからよ。仕事の後の会合でも焼肉たくさん食べているんでしょ」

「ま、まあ。そうだけれどね」

と夫は子供のように笑った。

「ねえ。あなた。健康のためにNASスポーツクラブで水泳をしたら?水泳がダイエットに一番いいと浅野浩二先生が言っていたわ」

「水泳か。面倒くさいなあ。それにNASスポーツクラブに入会すると入会金と月会費も払わなくちゃならないんだろう?三日坊主で終わっちゃいそうな気がするな」

夫は独り言のように言った。

夫は妻が近くのNASスポーツクラブに入ってランニングしたり筋トレしたりしているのを知っていた。

「ううん。そんなことないわ。NASスポーツクラブは一人、入っていれば、その家族や友人も使うことが出来るのよ。だから、あなたはタダで使うことが出来るわ」

「え、そうなの?」

「ええ。そうよ。もう、あなた用に水泳用トランクスとキャップとゴーグルも買っておいたわ」

そう言って妻はそれらを夫の前に出した。

「用意がいいなあ。でもどうしてそんなにダイエットにこだわるんだ?」

夫が聞いた。

「そりゃー。私が生涯の伴侶として選んだ人ですもの。長生きして欲しいし。いつまでも若々しくいて欲しいわ。水泳をすると新陳代謝が活発になって、そのおかげで私、肌もつやつやだわ」

実際、妻はNASスポーツクラブで運動しているため、20代の頃のプロポーションを維持していた。

「わかったよ。仕方がないな。じゃあ今度の日曜に行ってみるよ」

こうして夫は妻の作った夕食を食べ、そして翌日の仕事のために寝た。

夫は妻との営みはしなかった。

毎日のデスクワークで疲れて、その気になれなかったのである。

妻には夫が運動して新陳代謝がよくなれば、その気にもなってくれるかもしれない、という思いもあった。

・・・・・・・・・・・・・

さて。その週の日曜日になった。

「さあさあ。あなた。NASスポーツクラブに行ってらっしゃい。最低5時間は泳ぐのよ。あそこは日曜日は子供のスイミングスクールが無いからすいているわよ」

妻は学校嫌いの子供を送り出すように言った。

「わかったよ」

妻に背中を押されるように夫は家を出た。

夫はデイパックに、妻が夫のために買った水泳用トランクスとキャップとゴーグルと運動靴とタオルを入れて、自転車に乗ってNASスポーツクラブに行った。

夫はエレベーターで3階に行った。そしてロッカーに脱いだ着物を入れ、水着を着て2階に降りた。NASスポーツクラブは3階がロッカールームと風呂、サウナであり、2階が屋内プールだった。妻の言った通りプールはすいていた。

5レーンある25mプールに利用者は3~4人ほどだった。

夫はプールに入り泳ぎ出した。

夫は水泳は嫌いではなかった。しかしそれは夏に50mの屋外プールで10回くらい泳げばそれでよく、屋外プールをやっていない季節に、わざわざ、25mのプールで泳ぎたいとは思っていなかった。しかし有酸素運動の不思議な作用で、泳いでいるうちに脳内にβエンドルフィンが分泌され出したのだろう。だんだん気分が良くなってきた。

夫は25mをクロールで泳ぎ、25mを平泳ぎで泳いでいた。

・・・・・・・・・・・・

2時間くらい経った頃だろうか。

山野はプールから出て、プール室内のベンチに座って一休みしていた。

その時である。

プールの入口の方から紺色のワンピースの水着を着た若い女性が入って来た。

(う、美しい)

と山野は思わずため息をついた。

山野の視線が彼女の体に向けられているので彼女もそれを感じとって山野の方を見た。

「あっ」

という声が山野と女の両方から出た。

彼女はまだスイミングキャップをかぶっていなかったので、お互いの顔は一目でわかった。

彼女は数日前に電車の中で眠ってしまって山野の肩に頭を乗せて終点の湘南台駅まで隣り合わせに一緒に並んでいた女性だった。

彼女の方でもベンチに座っている男が電車の中で肩を乗せていた優しい、おじさん、ということにすぐに気がついた。

彼女はベンチに座って一休みしている山野に近づいてきた。

「あっ。先日は失礼しました」

と彼女は笑顔でペコリと挨拶した。

「あっ。いえ。こちらこそ」

山野もへどもどして挨拶した。

彼女はさり気なく山野の隣に座った。

「いやあ。奇遇ですね。こんな所でお会いするなんて」

山野が笑って言った。

「そ、そうですね」

彼女も山野に合わすように微笑して言った。

「あ、あの。あなた様はここのスポーツクラブの会員なのでしょうか?」

山野が聞いた。

「え、ええ。私、こっちに越して来て、まだ日が浅いのですが近くのスポーツクラブに入ってみようと思いまして・・・ここに入会しました」

「そうですか。あなた様はここのスポーツクラブの会員なのですか?」

彼女が聞いた。

「い、いえ。妻がこのクラブに入会しているんです。一人入会すれば、その人の友人、知人もここを利用できますからね。運動不足なものなので妻にプールに行って泳いできなさいと言われてしぶしぶ来てみたんです」

山野が言った。

「そうだったんですか」

そう言って彼女はニコッと微笑んだ。

彼女のワンピースの競泳水着姿は美しかった。

スラリと伸びたしなやかな脚。細い華奢なつくりの腕と肩。細くくびれたウェスト。それとは対照的に太腿から尻には余剰と思われるほどたっぷりついている弾力のある柔らかい肉。それらが全体として美しい女の肉体の稜線を形づくっていた。

競泳水着はただでさえ美しい女の肉体をピッチリと少しきつめの弾力によって絞めつけるように女の肉体を引き締めていた。それが女の体を美しく見せる効果を発揮していた。

特に女の股間の肉をしっかりと収めて引き締めて、ほどよく出来て上がっている小さな盛り上がり(ヴィーナスの丘)と、競泳水着のクッキリした輪郭からニュッと露出している太腿は小心な山野を激しく刺激した。

山野の心臓は興奮でドキドキと高鳴った。

「い、いやあ。お美しいですね」

山野は少し赤面して言った。

「いえ。そんなことないですわ」

彼女は、ふふふ、と微笑んで言った。

彼女は山野に名前を聞いてみようという気持ちになっていた。

「あ、あの。お名前は何と言うんでしょうか?」

女が聞いた。

「私は山野哲男といいます」

彼女が名前を聞いてきたので、山野はここぞとばかり彼女にも名前を聞いた。

「あ、あなたのお名前は?」

「私は佐藤京子と申します」

彼女はニコッと微笑んで言った。

お互い名前を教え合ったことで二人の気持ちは少しほぐれていた。

「佐藤さんはどうしてスポーツクラブに入っているんですか?」

山野が聞いた。

「私、小学生の時、体が弱くて水泳の授業に出れなかったんです。でも泳げている人を見ると羨ましくて。私も泳げるようになりたいなと思っていたんです。私、海が好きで人魚のように海を自由に泳ぎ回れるようになりたいという憧れがあるんです」

彼女は照れくさそうに言った。

「ふーん。佐藤さんはロマンチックなんですね」

「そうかもしれません。もちろん現実に人魚になることなんて出来ないですから、それは無理です。でも夏に屋外で50mプールを何時間でも泳げるようになりたいな、とは思っているんです」

「そうですか。僕も夏、屋外の50mプールで長時間泳いでいると確かに海を自由に泳ぎ回っているような感覚になりますからね」

「山野さんはクロールで泳げるんですね?」

「ええ。泳げますよ」

「うらやましいわ。私クロールは下手なんです。遅い平泳ぎがちょっと出来る程度なんです。平泳ぎなんてカエルみたいで格好よくないですね。やっぱりクロールで泳げるようになりたいと思っているんです」

彼女と話しているうちに山野はだんだん彼女の泳ぎの実力を知りたくなってきた。

しかしその前に自分がクロールで泳ぐ姿を彼女に見せて自慢したい気持ちが起こった。

「じゃあ、ちょっと泳ごうかな」

山野はさりげなく独り言のように言ってプールに入った。

そしてプールの壁を蹴ってクロールで泳ぎ出した。山野はいかに速く泳ぐかではなく、泳ぎのスビートは全力ではなく少しセーブして、バシャバシャ水飛沫をたてないように意識した。

エントリーでも水飛沫を立てないように、スーと入水し、バタ足もバシャバシャと水飛沫を上げないで、それでいて、可能な限り速く泳いだ。華麗なクロールを彼女に見せて得意になりたかったのである。

25mを1往復して元の所にもどると山野はプールから出た。

そして京子の座っているベンチに腰掛けた。

「わあー。山野さん。上手いんですね。スーと魚が泳いでいるみたいだわ」

京子は一切の夾雑物のない羨望で山野の泳ぎを誉めた。

「いやー。僕は小学生の頃、親に言われてスイミングスクールに通わされましたからね。泳げるのは当たり前ですよ」

山野は謙遜して照れくさそうに言った。

「じゃあ、今度は京子さんの泳ぎを見せてくれませんか?」

山野はソフトに言った。彼女はクロールは出来ず遅い平泳ぎしか出来ないと言ったから山野は気をつかったのである。

「はい。下手ですけど笑わないで下さいね」

そう言って彼女はベンチから立ち上がった。

山野は思わず、うっ、と声を洩らしそうになった。

なぜなら、彼女の体に弾力をもってピッチリと貼りついている競泳水着の後ろ姿がもろに間近に見えたからである。競泳水着はハイレグではなく、フルバックだったが、ほどよく脂肪の乗った女の柔らかい体を小さな面積の布で絶えず窮屈そうに縮むように貼りついているだけのワンピース水着は裸以上に女の体を美しく引き締めて見せる効果を発揮していた。

絶えず縮もうとする僅かな面積の布の中に豊富な量の女の肉を窮屈そうに収め込んでいるワンピース水着姿の女はこの上なく美しかった。

・・・・・・・・・・・・

彼女は長い髪をスイミングキャップの中に入れた。

そして目にゴーグルをかけた。そしてプールの中に入った。

彼女は平泳ぎでゆっくり泳ぎ出した。

まだ十分、水のキャッチが出来ていない。水は粘度のある流体であり水泳が上手くなるとは水をしっかりとつかめるようになることなのである。しかし、ゆっくりではあっても彼女は25mプールを一往復してもどって来た。

彼女はプールの底に足をついてプールの中から顔を出した。

「これが私に出来る精一杯なんです」

彼女は目からゴーグルを外して山野に言った。

彼女はハアハアと息を切らしていた。

「いやあ。平泳ぎはしっかり出来ていますね」

そう言って山野もプールに入った。

「佐藤さん。クロールは出来ますか?」

「ええ。でも全然ダメです」

「ちょっとクロールで泳いでみて貰えませんか?」

「はい」

彼女は目にゴーグルをかけ、壁を蹴ってクロールで泳ぎ出した。

水のキャッチが出来ていないので入水した手を強く下へ押すことによって顔を必死に上げ呼吸している。バタ足も下半身が沈まないように、バタバタとあわてて蹴っているので、お世辞にもきれいなクロールとは言えなかった。それでも何とか25mプールを往復して50m泳いでもどってくることは出来た。

彼女は壁にタッチするとプールの底に立って水中から顔を出した。

ハアハアとかなり息が荒かった。

「下手でしょう。これが私のクロールの限界なんです」

彼女はハアハアと荒い呼吸をしながら言った。

「いやあ。水泳の初心者はみなそうですよ。僕も最初はそうでした」

山野が言った。

「私、You-Tubeでクロールの動画をいくつも見てみました。さかんに水をキャッチすると言っていますが水のキャッチってどういうことなんですか?水をつかまえるってどういうことなんですか?」

彼女が聞いた。

「まあ、それはちょっと説明が難しいですね。水を掻き出す時、掌に水の抵抗がグッとくるような感覚のことなんですけれど・・・」

「それでは。どうすれば、その水のキャッチというものが出来るようになるんですか?」

彼女が聞いた。

「それは、今の泳ぎ方でいいですから根気よく続けること・・・その一言に尽きます・・・・そうすればいつか、水をキャッチ出来るようになります。僕もそうでした。難しく考える必要はありませんよ」

山野は言った。

「運動は根気よく反復練習しているうちに、雨だれが岩をも穿つように、体の動きがその運動の動作に順応していくものなのです」

山野はそう説明した。

「そうですか。それを聞くと何だか安心しました」

彼女はニコッと微笑んだ。

山野は何だか彼女のコーチになったようで嬉しかった。

「ただ。反復練習して疲れてきたら少しインターバルの休みを入れて、疲れをとってから再び練習した方がいいです。疲れている時にがむしゃらに泳いでも上達の効果はあまり期待できませんからね」

と山野はアドバイスした。

「そうですか。それではこれからそういうふうに練習するようにしてみます」

上手く泳げている山野のアドバイスなので京子は山野のアドバイスの理論的な意味はわからなかったが彼の意見に従おうと思った。

山野は、バタ足はムチのようにしなやかに、だとか、S字プル、や、息継ぎはどうだのこうこうだの、だとか、だのの些末的な事は言わなかったし言いたくもなかった。

なので言わなかった。世のスポーツコーチはやたらと、そんな事をくどくどと説明したがるものなのだが、そんなことは反復練習して上手くなっていけば自然とそうなっていくからだ。その点において山野は世のスポーツコーチをスポーツの理論がわかっていない頭の悪い人間だとバカにしていた。

「僕は妻に最低、5時間は泳ぐように言われていますので、あと2時間は泳ぎます」

そう言って山野は目にゴーグルをかけた。

「じゃあ私も一緒に泳ぎます」

彼女が自分についてきてくれることが山野にはこの上なく嬉しかった。

彼女もゴーグルをした。

山野は平泳ぎでゆっくりと泳ぎ出した。

京子も山野のあとを追って平泳ぎで泳ぎ出した。

同じレーンの中を山野と京子は往復して泳いだ。

ゴーグルはマジックミラーの役割りをするので彼女には山野の視線がわからない。

山野はその利点を生かして水中で揺らめくワンピース水着姿の京子の肉体を思うさま眺めた。当然、山野の方が泳ぎが速く京子はゆっくりなので、山野と京子の距離は開いていった。

山野は平泳ぎで泳いでいる京子の2mくらい後ろになると、泳ぎの速度を京子と同じにした。

京子が平泳ぎで足を後方に開いて蹴る時に、下肢がパックリと開き、水着で隠されている京子の股間がもろに見えた。水圧が京子の柔らかい太腿を揺らめかしていた。

その光景はとてもエロティックで悩ましかった。

山野は、こんなことはもう二度とないかもしれないと思い、しっかりと目に焼きつけるように、とろけるような快感と共に、しっかりと水着が貼りついている京子の股間をゴクリと息を呑みながら眺めて泳いだ。

しかしあまりそればかりしていると京子に不埒な企みを気づかれてしまうことをおそれ、山野は速度をあげて京子を抜いた。あくまでそんな企みは無く、純粋に有酸素運動としての水泳に励んでいるように装った。京子も山野の密かな企みには気づいていないように見えた。

京子は時々、クロールでも泳いだが、山野にアドバイスされたように疲れると時々、プールの端に着いて立ち止まって休みをとっていた。それも山野には無上の光景だった。

ワンピース水着で覆われている京子の股間の盛り上がりを水中でまじまじと見ることが出来るからである。恥肉を窮屈に収めてこんもりと形よく盛り上がっている女の悩ましい股間のふくらみ(ヴィーナスの丘)を山野は無上の幸せで眺めた。もちろん、そんな不埒な目的は無く純粋に有酸素運動としての水泳に励んでいるように装ったが。京子も山野の密かな楽しみの企みには気づいていないように見えた。

ふと見ると屋内プールの時計が6時を示していた。

NASスポーツクラブはウィークデーは夜11時までの営業だが、日曜は夜8時までの営業だった。

(よし。今日はこれくらいにしておこう)

壁にタッチすると山野は立ち止まってターンして泳ぎをやめた。

京子が平泳ぎでもどってきた。

京子も泳ぐのをやめた。

「京子さん。私は今日はこれで帰ります」

山野は京子に言った。

「じゃあ私も今日はこれで帰ります。疲れてきましたし・・・」

京子は微笑して言った。

二人はプールから上がった。

山野としては本当はもっと京子のワンピース水着に包まれたセクシーで美しい体を見ていたかったのだが、それを彼女にさとられないように、自分の方から「やめる」と言い出したのである。

二人は更衣室のある3階に上がった。

左側が男性更衣室で、右側が女性更衣室だった。

「山野さん。今日は色々とためになるアドバイスをして下さり有難うございました」

そう言って彼女は頭を下げた。

「いえ。嫌々ながら来てみましたが、奇遇にもあなたと出会えて私の方こそ楽しかったでした」

山野も笑顔で言った。

「あ、あの。山野さん」

「はい。何でしょうか?」

「またお会いしたいですね。今まで一人で泳いでいましたが、二人の方がモチベーションが上がってやる気が出るような気がします」

「私もです」

「山野さんは今度はいつ来られますか?」

「そうですね。スケジュール表にもありますが、平日は子供のスイミング教室でいっぱいなので、また来週の日曜日にでも来ようかと思っています」

「それはラッキーです。私もいつも日曜日に来ているので・・・また来週の日曜日にお目にかかりたいですね」

・・・・・・・・・・・・・・・

お互い笑顔で「さようなら」と言って二人は別れた。

山野は彼女に「ちょっとお食事しませんか」とか「よろしかったらアドレスを教えてくれませんか」とは言わなかった。山野の気持ちとしては熱烈にそうしたかったのだが、山野はいい歳してシャイなので自分が京子に熱烈に恋焦がれているということをさとられたくなかったのである。あくまでたまたま出会った女性と親しくなったと彼女に思わせておきたかったのである。歳も親子ほど離れているし、山野には妻も一人息子もいる。京子には彼女と同い年くらいの若者と親しくなって幸せになって欲しいと思っていたのである。

NASスポーツクラブにはいくつもの風呂がありサウナもあった。

山野は体を洗ってジェットバスや薬湯に浸かった。

おそらく彼女も風呂やサウナに入っているだろう。せっかくあるのに利用しない理由はない。

山野は想像力過多なので、彼女が着替えする姿や体を洗っている姿が頭に浮かんできた。

山野は10分ほどサウナに入ってからロッカールームで服を着てNASスポーツクラブを出た。

すると薄いブラウスに白いスカートを着た女性が自転車に乗って湘南台駅の方に向かっていく後ろ姿が見えた。京子さんだった。後ろ姿でも彼女のプロポーションや洗いたての長い黒髪からそれはわかった。山野は丁度いいタイミングで彼女がNASを出たことに感謝した。

山野は自転車に乗って彼女に気づかれないように、十分な間隔の距離をとり、彼女の跡を追った。彼女は山野の今までの態度から尾行されているとは思っていないのだろう。後ろを気にしたり振り返ったりする様子は全くなかった。湘南台駅の周辺は車の通行をスムーズにするためだろう、駅の近くには踏切りがなく、小田急線の下をくぐる車道が駅から少し離れた所に作られていた。彼女は湘南台駅の西口に住んでいる。

東口から西口に出るには湘南台駅の地下を通るのが一番の早道である。

山野は彼女に気づかれないように自転車で彼女を追った。

予想通り彼女は地下に入る坂道の前で自転車を降りて自転車を押しながら湘南台駅の地下に入って行った。山野も彼女に気づかれないようにあとを追った。

湘南台駅の地下には広いスペースがあって、いつも若者が集まってヒップホップダンスをしていた。しかし少し前から時々、ピアノが置かれている時も出てきた。ストリートピアニストのハラミちゃんの影響だろう。全国の大きな駅にはかなりストリートピアノが置かれるようになった。ストリートピアノは誰でも自由に演奏していいのである。

彼女はストリートピアノを見つけると自転車を止めた。演奏者はいなかったので、彼女はストリートピアノの椅子に腰かけた。ピアノの前には椅子が10個ほど並んでいて彼女がピアノの前に座ると、通行人が数人、椅子に座った。彼女は鍵盤にしなやかな指を乗せ、リストの愛の夢・第3番を演奏し出した。しなやかな指が腱板の上で力強く踊った。山野はピアニストの演奏の巧拙はわからなかったので、彼女の演奏がプロ級なのかそれとも趣味レベルのものなのかは判別できなかった。しかし間違えることなく、よどみなく美しいメロディーを奏でることが出来ることから、かなり上級者なのではないかと思った。演奏が終わると皆がパチパチと拍手した。彼女は立ち上がって皆に一礼し、自転車を押して西口を出た。

山野も彼女のあとを追った。

もう日が暮れて真っ暗だった。

彼女は円行公園の隣にある賃貸アパートの一室に入った。

部屋の明かりがポッと灯った。

山野は内心しめしめと思った。彼女がどこに住んでいるかは山野にとっては咽喉から手が出るほど知りたかったことだったからである。彼女には彼女の生活があり、山野は彼女の生活にズカズカ入り込んで行く気は全くなかったが、彼女との縁はどうしてもつなげておきたかったのである。

・・・・・・・・・・・・・

山野は自転車に乗って家にもどった。

「お帰りなさい。あなた」

妻が玄関に出迎えた。

「ただいま」

夫は家に上がった。

そしてソファーに座った。

「あなた。もう10時よ。こんな時間に帰って来るということは、ちゃんと5時間以上、泳いだということなのね?」

「ああ。お前の言う通りちゃんと5時間以上、泳いださ」

「立派。立派。よく頑張れたわね」

妻は子供を誉めるように言った。

「どうせつまらないだろうという予想は外れるものだね。やってみると結構、いいことがあるものだね」

「何?いいことって?」

「つまりだね。有酸素運動を長時間、続けていると脳からβエンドルフィンが出るのだろう。ランナーズハイと同じでね。お前もNASでランニングを続けられるのはβエンドルフィンが出て気分がハイになるからだろう」

「ええ。そうよ。ところであなた。夕食はまだでしょ。今日はステーキにしたわ。いますぐ焼きますわ」

夫は妻を見た。運動しているのでプロポーションは20代の頃をキープしている。

というより妻は絶対20代のプロポーションを維持しようという強固な意志を持っていた。

「いや。夕食はいい」

「どうして?」

「食欲が起こらないんだ」

「有酸素運動では、息が切れる寸前の強度(最大酸素摂取量の60%前後)を超えると、運動誘発性食欲不振が生じやすくなるらしいわ。少しの運動では返って食欲が亢進してしまうから逆効果だけど、あなたは頑張ったから、きっと運動誘発性食欲不振が起こったのね」

夫はあらためて妻の悦子をまじまじと見た。

初めて悦子を見た時は、世の中にこれほど美しい女性がいるだろうかと山野の頭は悦子のことだけで一杯になった。美しい女に対する恋愛と性愛に山野は毎日、悩まされた。

しかし結婚して10年以上も経つと、初心の頃の熱い想いは徐々に薄れ、男の関心事は女から離れて仕事になるようになった。それは男の宿命である。

妻とは夫が働く傍らで買い物をし、食事を作り、育児、家事をこなすハウスキーパーという感覚に落ちていくものである。

だから世の中では不倫が絶えないのである。

「ど、どうしたの?あなた」

夫になぜかまじまじと見つめられて妻は、その訳がわからなかったのである。

「悦子。お前はワンピース水着をもっているだろう?」

夫が聞いた。

「え、ええ」

「じゃあ、ワンピース水着に着替えてくれないか?」

「ど、とうして?」

「まあ理由なんていいじゃないか」

「わ、わかったわ」

夫は妻を連れて二階の寝室に入った。

「さあ。悦子。ワンピース水着を着てくれ」

夫に言われて妻は引き出しを開けて黄色のワンピース水着を取り出した。

そして着ている服を脱いでワンピース水着を着た。

妻はスポーツクラブでしっかりとランニングしているので、その肉体は20代の時と変わらぬ美しいプロポーションを保っていた。

「うっ。美しい」

夫はそう言うと妻の後ろに回って水着に包まれた妻の尻に唇を当て、チュッ、チュッとキスをした。

そして今度は妻の正面に回り、太腿を抱きしめて、もっこり膨らんでいるヴィーナスの丘や太腿に貪るように、チュッ、チュッとキスをした。

「あ、あなた。どうしたの?いい歳して?」

妻は夜、夫婦の営みに誘っても「疲れているんだ」と言って全然のってきてくれない夫に不満を持っていた。それがどうしてこのように急に性欲旺盛になったのか、わからなかった。

しかし理由はわからなくても久しぶりに夫に愛撫されて妻は、くすぐったい嬉しさを感じていた。

「ふふふ。あなた。一体どうしたの。こんな子供じみたことをするなんて?」

妻は笑いながら言った。

しかしもちろん夫にはその理由がわかっている。

今日、長い時間、京子さんのワンピース水着姿をじっくり見てしまったことが夫に激しい若返りの回春効果をもたらしていたのである。

「ああ。京子さんのワンピース水着姿は何とセクシーなんだろう」

と夫は悩まされ続けた。しかし夫はスポーツに励む仲間という関係を装い続けて決して、彼女に恋してしまった内心は打ち明けなかった。

また夫は彼女に対し男女間の関係を持つことを自分に厳しく禁じていた。

妻子のある歳のいったオッサンと若い女性の恋など美しくない。

若く美しい女性は彼女にふさわしい若く逞しい男と若く美しい人生を築いて欲しいと思っていたからである。

京子さんの美しいワンピース水着姿の体に触れたいという本能的欲求と触れてはいけないという理性の葛藤に夫は激しく悩まされ、それが夫に強力な性欲亢進をもたらしたのである。

それは京子だけではなく女一般のワンピース水着姿に対しても同様だった。

京子さんのワンピース水着姿に触れることは出来ないが妻に対してなら出来る。

夫は妻の体を京子さんの体だと思い込もうとしていた。

女の体の構造に違いはない。

夫は今、妻を京子さんだと思い込んでいた。

したくても出来なかった欲求不満が解放された時ほど男の性欲が満たされる時はない。

夫は妻の太腿を抱きしめて、尻や、もっこり膨らんでいるヴィーナスの丘や太腿に貪るように、チュッ、チュッと激しくキスをし続けた。

しかし、理想とするものが手に入らない時に似たようなものを代わりにして満足する代償行動をしている夫の心が妻にはわからなかった。

「ふふふ。あなた。一体どうしたの?」

妻には夫の心がわからなかったが久しぶりに熱烈に愛撫されることに妻はくすぐったい喜びを感じていた。

その晩、夫の命令で妻はワンピース水着を着たまま眠らされた。

夫にとっては裸よりそれが一番、興奮する姿だったからである。

夫はワンピース水着を着た妻を抱いた。

・・・・・・・・・・・・・

翌朝。

妻の作った朝食を食べ、「じゃあ出かける」と言って山野は家を出た。

「あなた。いってらっしゃい」

と妻も久々に夫に愛撫されて嬉しそうに夫を見送った。

その日は、山野は今度の日曜日が待ち遠しくて仕方がなかった。

会社でも、京子のワンピース水着姿で頭が一杯だった。

なので仕事も手につかなかった。

会社が終わった。

山野は帰りにNASスポーツクラブに寄った。

佐藤京子が着ていたワンピース水着はNASスポーツクラブで売っているものなので、それと同じ物を買って妻に着せたいと思ったからである。

「あっ。山野さん。佐藤京子さんがついさっき、あなたが来たら渡して欲しいと言って封筒を置いて行きました」

そう言ってNASの受け付け嬢が山野に封筒を渡した。

山野はすぐに封筒を開けて見た。

「山野さん。今週の日曜日には初夏の鎌倉を一緒に歩きませんか。12時に日曜日に鎌倉駅前の喫茶店ルノアールで待っています。佐藤京子」

と書かれてあった。

(ああ。彼女も私に好意を持っていてくれたんだな)と嬉しくはあった。

しかし。山野にはそれを素直に喜べない複雑な感情が起こっていた。

自分には妻も子もいる。彼女には将来がある。彼女には彼女にふさわしい若い男と人生を築いて欲しい。しかし、彼女との縁も切りたくはなかった。どうしたらいいか。迷っている山野にふと息子のことが思い浮かんだ。そうだ。息子は東北大学医学部を来年、卒業する。まず医師国家試験にも通るだろう。息子はオレと同じように真面目な性格だ。オレの代わりに、息子に今度の日曜は喫茶店ルノアールで会ってもらおう。もし彼女と親しくなれたらこれ以上に嬉しいことはない。

そこで山野は息子の修一に電話をかけた。

「おい。修一」

「なんだ。おやじ?」

「国家試験は大丈夫か?」

「ああ。模擬試験でも80点はキープしているよ。まず大丈夫だと思う」

「そうか。ところで今週の日曜なんだが、こっちへ来ないか」

「なんで?」

「会って欲しい人がいるんだ。お前。恋人はいるか?」

「いないよ」

「じゃあ、今週の日曜、鎌倉駅前の喫茶店ルノアールに行ってくれないか。そこに佐藤京子という人がいるから」

「どんな人なの?」

「しとやかで、つつましくて、きれいな人だ。社会人になりたての人だ」

「おやじとどういう関係の人なの?」

「同じ湘南台に住んでいてな。NASスポーツクラブで知り合って親しくなったんだ。お前とは同い年くらいだ。僕は山野哲男の息子です。父が急に用が出来たので父の代わりに来ました、と言えばきっと会ってくれると思う。奇麗で優しい人と二人で鎌倉を散策しないか?」

「その人はおやじにそう誘ったんだろ?」

「ああ」

「じゃあ、どうしておやじが合わないんだ?」

「オレには愛する妻がいる。オレは妻を愛しているし妻もオレを愛している。オレが彼女と親しくなり過ぎると妻を悲しませることになるだろう。それに彼女とは親と子ほど歳も離れている。彼女には若い者どうしで素敵な未来の人生を送って欲しいんだ。お前と彼女が親しくなってくれれば、オレにとってこれに越したことはないんだ。どうだ?」

「わかったよ。見合いだと思って会ってみるよ」

「そうか。じゃあ、オレの代わりに彼女と会ってくれ」

「わかった。そうするよ」

・・・・・・・・・・・・・・・

日曜日になった。

山野はその日、京子さんのいないNASスポーツクラブに行って5時間、泳いだ。

一人きりだが、有酸素運動も一定の時間、泳ぎ続けてるとβエンドルフィンが出て気分がハイになることを前回知ったからだった。

1時に山野は息子にスマートフォンで電話をかけてみた。

「修一。どうだ。佐藤京子さんとは会えたか?」

「ああ。会えたよ。今、鎌倉駅前の喫茶店ルノアールで彼女と色々と話をしている所だよ。これから鶴岡八幡宮に行く所さ」

「そうか。それはよかったな。ところでお前、今日はこっちへ泊っていくか。それとも仙台に帰るか?」

「仙台に帰るよ。明日も臨床実習が9時からあるからね」

「そうか」

そう言って山野は電話を切った。

そして泳ぎ続けた。

・・・・・・・・・・・・

その日の夜遅く。

山野は息子に電話をかけた。

「どうだった。今日は?」

「レンタカーで鶴岡八幡宮や大仏、由比ヶ浜、江ノ島などに行ったよ。僕が山野哲男の息子です、と言ったら、彼女はとても喜んでくれたよ。彼女とは親しくなれそうだ」

「そりゃーよかった。しかしよく初対面のお前に彼女は親しくしてれたな?」

「おやじ。今だから言うけど、彼女とは初対面じゃないんだ」

「ええっ。どういうことだ?」

「実はね。先月、家に帰ってきたことがあったろう。あの時、横浜市営地下鉄ブルーラインに乗ってもうすぐ湘南台だなと思っていた時だったんだ。彼女がしょんぼりして悲しそうな様子だったもので、何かあったんですか、と聞いてみたんだ。その前に彼女が湘南台駅の地下のストリートピアノを弾いていたのを見たことがあって、ちょっと話したこともあったんだ。それで、あっ、ストリートピアノを弾いていた人ですね、と声をかけてみたんだ。彼女も悩み事を誰かに聞いて欲しそうな態度だったんで、湘南台駅を降りたら、少し話しませんかと言って駅前のマクドナルドに一緒に入ったんだ。そして少し話したんだ」

「そうか。そんな事があったのか」

「聞く所によると彼女は大学を卒業して、ある会社に勤めたばかりの頃だったんだが。在日朝鮮人であることがわかってしまってね。その会社は社長が在日朝鮮人を嫌っていてね。彼女は友達も出来ず一人ぼっちでさみしいことを涙ぐみながら話したんだ。可哀想になってね。だから、スマートフォンで父親の写真を見せたんだ。そして、父親は在日朝鮮人を差別するようなことはしない優しい性格ですよ、会社からの帰りは夜10時の横浜市営地下鉄ブルーラインに乗って帰ってきますよ、と言ったんだ。彼女はきっとおやじにも話しかけるんじゃないかと思ってね。案の定、彼女はおやじと親しくなったな。きっとこんなことになるだろうことは、うすうす予想していたよ」

「そうだったのか。そんなこととは知らなかったよ」

「今日は京子さんと鎌倉めぐりが出来て本当に楽しかったよ」

「そりゃーよかったな。ところでお前、卒業したらどうするんだ?当然、東北大学医学部のどこかの医局に入るんだろう」

「それはまだ決めていない」

・・・・・・・・・・・・・・

修一は翌年、無事、東北大学医学部を卒業した。

そして医師国家試験にも通った。

山野は修一に医局は東北大学医学部ではなく横浜市立大学医学部に入るよう勧めた。

修一もそれに納得してくれた。

しかし修一が彼女にそれを伝えた所、彼女はそこまで私の都合を優先させてしまっては申し訳ありません、私が仙台に引っ越します、と言った。

彼女は仙台に引っ越し、仕事も仙台で見つけ、修一の近くにアパートを借りて住んでいる。



2025年3月21日(金)擱筆

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OLとおじさんの恋「OLとおじさんの恋愛小説です」 浅野浩二 @daitou8

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