抵抗と加速

鹿ノ杜

第1話

「カネモトよ、お前の質量エムはいくつだ?」

「ミタライ先生、どういう意味です?」

 放課後の物理室はいつしか夕焼けに染まっていた。先生は黒板に書かれた自由落下の公式をながめ、たとえば、とつぶやいた。

「スカイダイビングとかさ。落下速度ブイは質量エムに比例して速くなる。ただし、空気抵抗を有するものとする」

 使い古した計算機をタッタカたたいている先生をじいっと見つめながら、あたしは想像した。高度三千メートルから飛び降りたあたしと先生は重力加速度ジーに導かれて、落ちていく。視界を染めるような青空と広大な陸に挟まれ、風を切る。想像の中ではなぜか白衣を着ている先生に向かって、思いの丈を叫ぶ。

 センセ、あたしと結婚して?

「おい、聞いてるか、カネモトよ」

「センセ、なんで白衣着ないの?」

「え、なんで? 薬品だって使わないし。化学教師と混同してないか? それかテレビの見すぎだ。あ、今はユーチューブか、ティックトックか?」

 先生はそうおじさんってわけでもないけど、すごくおじさんみたいな物言いをする。だけどそれがあたしにはすごくはまって、金曜日の六時間目が終わった後に先生を呼び止めて、質問ゼメにして、あたしで頭の中をいっぱいにして、ついでに好きになってくれないかな、なんて、本気で思っていた。

「女子の中で選択授業に物理を選んでくれたのはカネモトだけだったから、先生、うれしかったんだけどな。あ、今って、こういう言い方しちゃまずいんだったか」

「あたし、物理を学んでよかったよ、センセ。気づいたことたくさんあるよ」

 抵抗値アールが大きければ大きいほど、電流アイは流れにくくなる、とか。

「そうか? それならよかった」

 ミタライ先生は心底うれしそうに目を細めた。平和そうな室内犬みたいにかわいくて、また一つ、先生を好きになった。

 あたしは教科書をめくる。来週の授業の範囲をながめていると、ある記述が目に入った。

「空気抵抗は速さに比例するんですね?」

「ああ、そうだよ。予習か? えらいな、カネモトよ」

「まあね。じゃあ、そろそろ帰るね、センセ」

 あたしが手を振ると、先生も手を振り返してくれる。週末はちょっとでもあたしのこと、考えてよね。そう言いたくなるけど、がまんする。

 物理室を後にして、廊下を静かに歩いていく。押さえつけないと加速しそうになる自分をなんとか食い止める。

 今日、学んだことを反芻する。抵抗は速さに比例する。じゃあ、逆を言えば。

 限りなく、ゆっくりと進め、あたしの恋。

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抵抗と加速 鹿ノ杜 @shikanomori

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