少年の話を聞いて。

 レンと名乗った少年に手を差し伸べた。


 少年の体にまとわれていたのは、布と呼ぶにはあまりに素朴で、粗い繊維の束だった。

 くすんだ土色の麻布が一枚、肩から斜めにかけられ、腰のあたりで縄のような紐で結ばれている。


 裾は膝よりも少し上、端はほつれていて、歩くたびに風にそよぐ。


 衣と呼ぶには、あまりに無骨だ。


 だがそこには、飾らぬ生活と、自然に寄り添って生きてきた人々の痕跡がにじんでいた。


 染めも縫いもされていないその麻布は、雨を防ぐことすら難しいだろう。


 足には片方しかない草履。もう片方はどこかで失われたのか、裸足の足裏には、小石と泥と、長い距離を歩いた痛みの名残が滲んでいる。


 文明とは無縁の、その服装。


 体は痩せ細り、骨が浮き出ている。これは明らかに長い間、まともな食事をとっていない身体だ。


「まずは……うちに入りなさい。立ってるのもしんどいだろ?」

「……よ、よろしいのですか?」


 俺は彼の足元を見て汚れを落としてからの方が良いだろうと、風呂場から桶を持ってきて、湯を注いで玄関に椅子を置いて足を洗ってやる。


「竜人様にそんなことをしてもらうなんて!」

「気にしなくていい。大人が子供の世話をするだけだ。それに竜人様とはなんなのだ?」


 先ほどから気になっていた竜人という言葉。


「ドラゴンを従え、我々に授けてくださる方々を竜人様と呼んでいます。そして、我々は竜人様に仕える。ドラゴン使いの一族です」


 全く理解できない。


 この世界のことを知らない俺としては、彼は情報源として良いかもしれない。


「そうか、屋敷の中に誰を迎えるかは俺が決める。君に悪意がないってことは、もうわかってるから安心しなさい」


 レンの目が少し揺れた。


 言葉を信じきれずにいた少年が、ほんのわずかに肩の力を抜く。


 綺麗に洗いながら、ドラゴンが怪我をしたとき用に作っておいた、痛み止めの薬草を塗りこんでおく。


「どうだ?」

「痛くないです!」

「そうか」


 泥や傷で汚れていた足は、女神様が用意してくれた痛み止めの薬草の効果が現れて綺麗になっていた。


 ゆっくりと立ち上がるのを手伝って、俺は屋敷の扉を開けた。


 レンは、広く清潔なキッチン、木の香りのする床、ほんのり魔力で温度調整された部屋を見て驚いた顔をしている。


 どうやらこの光景は、当たり前ではないようだ。


 俺としては二ヶ月で見慣れた光景だが、彼にとっては別世界なのだろう。


 静かに湯を沸かし、女神様に用意してもらったお茶の缶を開けた。


 異世界産なのに、どこか緑茶に似た香りが漂ってくるのが不思議だ。


 湯呑をレンの前に置く。


「さ、まずは落ち着いて。飲めるかい?」

「はい、ありがとうございます……」


 レンは緊張しながら両手で湯呑を持ち、慎重に一口。


「……っ!?」


 目を見開き、手が一瞬止まる。


 そして、もう一口、もう一口と、おそるおそる飲み進めていった。


「おいしい……こんな……あったかくて、胸の奥がじんわりするような……お茶……初めてです……」

「そうか、良かったよ」


 ほんの少しだけ、レンの目元が和らいだ。


「さて、じゃあ……君のことを聞かせてくれないか?」


 俺が静かに問いかけると、レンは湯呑を膝の前に置き、深く頭を下げた。


「はい……僕は、山の下のカガミ村というところに住んでいます」


 初めて聞く地名だった。


 というかこの世界の地名は全く知らない。


 後で書庫で世界地図でも探してみようかな。


「カガミ村は、昔から竜人様に仕える村だと教えられていました。牧場のある山の上には、昔……竜の主様が住まわれていて、僕たちの先祖はそのお世話をする役目を任されていたそうです」

「竜の主、ね……」


 この牧場のことか。


 俺がもらった場所の本来の持ち主がいたんだろうな。


 女神様が過去にあった牧場の再興のような意味のことを言っていたのを思い出す。


「でも、十年以上前に竜人様がいなくなってしまって……それから、僕たちはずっと不安の中にいました」


 レンの指が、膝の上でぎゅっと拳を握る。


「竜人様が帰ってくるという言い伝えだけを信じて、大人たちはずっと待っていたんです。でも、近年はもう……そんなものは昔話だって、誰も信じなくなって」


 少しうつむいて、レンは唇を噛む。


「それでも、僕は信じてました。夢に出てきたんです。銀の翼と、金の地に眠る者、虹の尾を持つ竜が……目覚めの音とともに、呼んでいたんです」


 それはヴェイル、ポポコ、リュナのことかな? 彼と三人に関係がある?


「カガミ村の人間も、誰かが……確かめなければならないって話はずっと出ていたんです。でも、大人たちは恐れ多いって、誰も動きませんでした」


 静かに聞き続ける。レンの目が、まっすぐ俺を見据える。


「だから、僕が来たんです。僕は親もいないし、役目もなかった。だったら、行くべきだと思ったんです」


 その声には震えがあったけど、まっすぐだった。


 未知のものに触れるとき、人は恐れを抱くものだ。


 レンは、勇気を持ってここにきたのだろう。


「君の決意、ちゃんと届いたよ」


 俺は湯呑に少しだけお茶を注ぎ、ゆっくりと飲んだ。


 竜騎手になりたい。


 それは、きっとドラゴンの使いたちにとって夢であり救なのだろう。


 過去と未来を繋ぐ希望なのだろう。


「レン。まずは、風呂に入って、何か食べよう。そして……」


 俺は笑った。


「お前に、うちの子たちを紹介しよう。ヴェイル、ポポコ、リュナ。きっと、君に会いたがってる」

「……ほんとに、いいんですか?」

「ああ、ただ三匹が気に入らないと判断したなら、追い出す」


 レンは、ぽかんとした表情を浮かべ、そして泣いた。


 静かに、静かに、その目から涙がこぼれた。


「……ありがとう、ございます……竜人様……!」


 そっと湯呑を取り、レンの前でそれを満たす。


 この牧場に、初めて俺以外の人が訪れた。


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