第十話 卵が先か、うんこが先か

 綾子は、あの夜以来ずっと混乱していた。


(鈴木……あの時、一体何を考えていたの?)


 確かに、鈴木の脳内は肛門とうんこで埋め尽くされていた。しかし綾子にとっては、それは全くの想定外だった。


(まさか、何の前触れもなく、いきなり……あんな場所を……。しかも、あんなふうに指を入れるなんて)


 綾子にとって、それは屈辱だった。

 子どもの頃から「可愛い」と言われ続けてきた自分。その“美貌”を完全に無視され、まっすぐ肛門に向かってきた男が現れるとは思ってもいなかった。


 もし綾子が、あのとき掻き出されたものを鈴木が食べたことまで知っていたら——あの夜のショックは比較にならないほど深いものになっていただろう。


 それでも、綾子は鈴木に好意を抱いていた。

 学生時代から、友達として仲良くしすぎてしまったせいで、恋愛関係に進むタイミングを逸してしまったのだ。そして、ようやく踏み出したあの一歩が、あの“事件”だった。


(私じゃなくて……お尻の方が好きなの?)


 その疑問は、綾子の中で堂々巡りを繰り返した。


 たしかに、鈴木は綾子に惹かれていた。

 しかし、彼の興味の中心が「綾子」ではなく「綾子のうんこの有無」にあったことは否めない。


 だが——それは綾子という存在に付随した命題であり、綾子への執着なしには成り立たない関心だった。


 (つまり、卵が先か、鶏が先か……私が先か、うんこが先か……)


 綾子は悩み、考え、ひとりノイローゼのようになっていた。

 どうしても鈴木の“真意”が分からなかった。

 会って話すべきかとも思ったが、今の綾子にその気力はなかった。


 ふと、加藤の顔が浮かんだ。

 何も考えていないようで、底抜けに楽観的な彼。今の自分には、そんな存在が必要かもしれない。


 綾子はスマホを手に取り、加藤に電話をかけた。


「もしもし、加藤? 少し話したいんだけど……」


「うわっ、綾子!? 今ちょっとヤバい! 鈴木と柳瀬が大ゲンカ中なんだ!」


「えっ……何それ? どういうこと!?」


「半分くらいは……いや、全部お前のせいかもしれん」


「はぁ!? 意味が分かんない! 今どこにいるの!?」


「鼻くそ屋だよ。鈴木が椅子振りかざして暴れかけてる」


「……行く! すぐ行くから!」


 加藤は一瞬躊躇した。

 ——当事者の綾子が来れば、火に油を注ぐことになるのではないか。

 しかし、その不安を吹き飛ばすように、彼の中の“いつものノリ”が勝った。


「……あー、まあいいか。来いよ。待ってる」


「絶対行く! 今すぐ!」


 電話を切ると、綾子は迷うことなく玄関を飛び出した。

 その胸中は混乱のまま——だが、その足取りだけは、真っ直ぐ鼻くそ屋へと向かっていた。


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