第八話 可愛さと排泄のあいだで
あの夜のことを境に、鈴木は重度のノイローゼに陥っていた。あの絶頂の瞬間は、帰り道の夜風によって冷まされ、日を追うごとに現実が心にのしかかってきた。
(あれは、一体何だったのか……)
理解できない。言葉にできない。だが、確かに指に掴んだ感触、舌に触れた重み——それは、記憶の中にしっかりと残っている。ただし味は覚えていなかった。
そんなある日、加藤から電話がかかってきた。
「よう、鈴木。最近どうよ? 綾子とうまくいったんだろ?」
「うまく……いったよ」
鈴木の口にした“うまくいった”は、加藤が期待する意味合いとは異なっていた。
「ならよかったな。でもさ、お前のこと、最近誰も連絡とれないって言っててさ。ちょっと心配になった」
「まあ、正直調子は良くない。仕事も休んでる」
「バカ、そんなの鼻くそ屋で酒でも飲んでりゃ治るって。また今週末どうだ?」
「そうだな……外に出るのも、そろそろ必要かも」
「決まりだ。金曜な。柳瀬にも声かけとく」
加藤はいつも通り、あっけらかんと軽い。
だが、鈴木にとってはその気軽さこそが救いだった。
ノイローゼの原因は明確だった。
綾子の、あの“物体”——あれが何だったのか。
(うんこ、だったのか……?)
もしそうだとしたら、鈴木はそれを自らの体内に取り込んだことになる。
つまり、いま自分の腸内には、綾子の——いや、“それ”が残した何かが、なおも存在している。
だが、果たしてそれは“うんこ”だったのか?
可愛い女の子は、うんこをしないはずではなかったか?
思考はめぐる。
そもそも「可愛い」という概念自体が、極めて主観的だ。
綾子は可愛い。
だがそれは、鈴木の視点から見たときの話にすぎない。
世界中の誰もが綾子を可愛いと思うのか? その答えは、誰にも出せない。
——ゆえに、“絶対的な可愛さ”など、存在しないのだ。
では、「うんこをしない可愛い女の子」は、幻想なのか?
さらに混迷するのは、「する」という動詞の問題だった。
綾子は自ら“出した”わけではない。
鈴木が掻き出しただけなのだ。
それは“能動”ではなく、“受動”——つまり、綾子はうんこを「した」のではない。
(これは……ギリギリ、セーフなのではないか)
そしてもう一つの未解決問題。
綾子のトイレの使用者は、本当に綾子本人なのか?
訪れた客か、清掃業者か、あるいは彼女以外の誰か……?
堂々巡りの思考に、鈴木の頭は痛んでいた。
——とにかく、もう一度加藤や柳瀬と話をしよう。
加藤は本質をぶち壊すような馬鹿な一言を投げるタイプだ。
柳瀬は、どんな話にも真面目に向き合う理屈屋だ。
その二人になら、この狂気すれすれの悩みも……どこかで整理できるかもしれない。
金曜の夜。
ノイローゼが癒えたわけではなかったが、鈴木は久しぶりに外に出た。
鼻くそ屋へと向かう道すがら、ほんの少しだけ足取りが軽かった。
そして、店の前。
タイミング良く、柳瀬の姿が目に入った。
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