第六話 神と対極
トイレに向かう途中、鈴木の脳裏にふと一冊の小説が浮かんでいた。
『人間失格』——太宰治。
その中にあった、ある一節。登場人物たちが「女のアントニム(対義語)」を考えるという会話だ。ある者は「花」と答え、それを主人公が「それはシノニム(同義語)じゃないか」と問い返す。だが、友人は譲らなかった。
鈴木はあの会話を面白いと思いつつも、違和感を持っていた。彼にとって女のシノニムは——“花”もしくは“神”であるべきだった。
そして、アントニム。
それは、うんこ。
神性とは、最も遠いもの。女を神とするならば、最も冒涜的で、不浄で、矛盾する存在。それがうんこであった。
(綾子は、うんこをするのだろうか)
鈴木はふたたび自問する。先ほどの「人間ですもの」発言が、心に引っかかっている。あれは綾子の嘘か、それとも演技か。
——その答えは、この先にあるかもしれない。
今、彼が向かうのは、綾子の家のトイレ。
もし綾子がうんこをする存在であれば、何らかの痕跡があるはずだった。芳香、汚れ、微かな痕跡。
ドアの前に立ち、手が震える。
ゆっくりとノブを回し、中に入る。
まず鍵をかける。もちろんそれは礼儀でもあるが、鈴木にとっては“孤独な儀式”の始まりでもあった。
深呼吸を繰り返す。何度も、何度も。鼻から吸い、口から吐く。
(なんて……空気がおいしいんだ)
鈴木の感じる“おいしさ”は比喩ではなかった。無味無臭であるはずの空気に、彼は確かな充足を感じていた。澄んでいる。清らかで、侵されていない。
——これは、使われていないトイレの空気だ。
しかし、時間は限られていた。
五分もこもれば、鈴木自身が「うんこをしている」と思われかねない。彼には“観察”のための限られた時間しか与えられていなかった。
まずは便器。
顔を近づける。鼻が便器すれすれ……いや、少し触れていた。
匂い——しない。
次に、色、形、縁の汚れ。便座の裏。水垢、黄ばみ、髪の毛。何もない。
(使用感……ゼロ)
完璧に近い。神の器。
だが、そのとき——
視界の端に、あるものが映った。
便器用ブラシと洗剤。
一瞬で心がざわめいた。
完璧な器の隣に、明確な“使用の証”が置かれていたのだ。
鈴木は洗剤を手に取り、重さを量る。半分ほど使われている。
ブラシも見た。毛先にわずかな開き。真新しいものではなかった。
これは、綾子が“トイレを使用している”という証拠か?
それとも、ただの形だけの清掃か?
混乱の中、鈴木は——無意識にブラシを舐めた。
味は、なかった。
ある意味、それが一番の絶望だった。
限界が来た。時間も、精神も。
とにかく一度、用だけ足して出直すしかない。
チャックを下ろし、鈴木は自分の下腹部に手を添える。
「……あっ」
硬くなっていた。
これでは、おしっこすらできない。
鈴木は仕方なく、別のことを考えて気を紛らわせることにした。
神の住まう器の前で、彼はひとり、哲学と排泄のあいだを揺れていた。
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