第四話 排泄という嘘
綾子が「お手洗いに行ってくるね」と言った瞬間から、鈴木の頭は混乱に包まれた。
(綾子は、手を洗いに行っただけに違いない。うんこ? おしっこ? まさか。そんな俗な行為を、綾子がするはずがない……)
そう、これは文字通りの「お手洗い」なのだ。単に手を洗うための空間。彼女の口から排泄にまつわる言葉は一切出ていない。だから、解釈の余地はあった。信仰のようなものだった。
だが、安心していた鈴木の耳に、加藤の声が突き刺さる。
「綾子、おせえなあ。うんこじゃね?」
その言葉に、鈴木は椅子から転げ落ちそうになった。加藤の冗談かと一瞬思ったが、その顔はいつも通りの脳天気なアホ面だった。
「それはないだろ」
「なんで?」
「なんでって……ありえないからだよ」
「可愛かろうがなんだろうが、糞くらいするだろ?」
「見たのか? 綾子が糞するところを!」
「いや、見たことはないけど……」
「だったら軽々しく言うな!」
空気が張りつめた。鈴木にとって、美女の排泄はタブーであり、否定であり、信念であった。それを踏みにじるような言葉に、反射的に怒りが湧いた。
柳瀬が場を和ませようと口を挟む。
「まあまあ、そのうち戻ってくるって」
そしてその言葉通り、綾子は数分後に何事もなかったかのように戻ってきた。
「私がいない間、何話してたの?」
誰も答えなかった。沈黙が支配するテーブル。
「どうせHな話でしょ? 男っていつもそうよね」
確かにそうではあったが、綾子本人を話題にしていたとは思っていない様子だった。それが唯一の救いだった。
「それより、次の鼻くそ食べようぜ」
加藤が話題を戻すように、鼻くそ風の豆粒料理を手に取る。
「これなんか、マジで鼻くそそっくりだぞ」
綾子は無表情のまま。鈴木と柳瀬だけが吹き出す。
しかし鈴木の心には、まだ疑念が残っていた。綾子の不在時間は明らかに長かった。手を洗うだけなら一分もあれば十分だ。しかし、彼女は五分は戻ってこなかった。
(潔癖症? いや、綾子に“汚れ”は無縁のはず。手が汚れるという概念すら適用できない。むしろ、彼女に触れた物体が浄化される……はず)
それでもなお、トイレに向かった事実だけは、現実として残っている。
そのとき、加藤がふいに口を開いた。
「綾子ってさ、うんことかするの?」
空気が凍った。
数秒の沈黙の後、綾子は淡々と答えた。
「するわよ。人間ですもの」
——衝撃だった。
鈴木が感じたのは、「うんこをする」という事実への拒否ではなかった。綾子が“明確な嘘”をついたことへのショックだった。
あの綾子が、嘘をつく? そんなはずがない。でも、それ以外に説明がつかない。綾子が排泄などするはずがないのだ。
そして夜は更け、会はお開きムードに包まれていた。綾子は再び「お手洗いに」と席を立つ。
その瞬間、鈴木には悟るものがあった。
(……綾子は、嘘をついたのではない。あれは“擬態”だ。人間として生きるための……カモフラージュだ)
「人間ですもの」という発言も、トイレに立つその演出も、全ては“普通の女性”を装うための社会的演技。鈴木はその気持ちに気づけなかった自分を恥じた。
綾子が戻り、支払いの時が来た。
「7600円です」
ビールしか頼んでいない割に、料理はしっかり堪能した。
一人1900円を支払って、三人は解散。だが、鈴木の中には、どうしても未消化なものが残っていた。
加藤と柳瀬が帰る中、綾子だけがその場に残っていた。
「もう一軒、行かない?行きつけのバーがあるんだけど」
鈴木は思いきって誘ってみた。
「いいわ。ビールだけじゃ物足りなかったところ」
夢のような返事だった。だが問題は、鈴木には“行きつけのバー”など存在しないということだった。
そうと知れず、綾子は微笑みながら言う。
「じゃあ、行きましょうか」
その言葉に押されるように、鈴木は立ち上がる。
行き当たりばったりの夜が、静かに始まろうとしていた。
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