第二話 鼻くそを知らぬ女

 目覚めた鈴木は、まず下半身の状態を確認した。特に異常はない。昨日の妄想の余韻が残っていること以外は、いたって普通だった。だが、陰茎は異臭を放っていた。


「こんな臭い物をぶら下げて綾子に会うなんて、無理だな……」


 そう呟いてシャワーを浴び、苦味の強いコーヒーを啜る。だが、口の中に広がるその風味は、どこか“うんこの出汁”を連想させた。


 鈴木には昔からある癖がある。世界のあらゆる物事を、うんこや汚物と結びつけて考えてしまうのだ。机も、テレビも、花も、風も。すべてが一度「汚れ」として変換される。そして、唯一その変換を拒む存在——それが、可愛い女の子だった。


 今夜、綾子と会う飲み会がある。場所は「鼻くそ屋」。19時集合だ。


 その名のとおり、鼻くそを模した奇抜な料理を出す居酒屋だが、実際のところ、鼻くそ料理を注文する客はごく一部。ほとんどは普通の料理を食べている。


 この店は鈴木の親戚が経営しており、彼自身も常連だ。ただ、綾子を「鼻くそ屋」に連れて行くのは初めてだった。


「綾子を、笑わせたい」


 その一心だった。だが、どこかでわかっていた。こんなことで笑ってくれる女の子なんて、普通はいない。


 けれど鈴木の心配は、もっと根本的なところにあった。


「綾子って……鼻くそ、見たことあるのかな?」


 突飛に聞こえる疑問だが、鈴木にとっては真剣な命題だった。


 綾子のような美の化身から、そんな不潔なものが出てくるとは考えられない。そもそも、綾子が“自分の鼻くそ”という存在を認識したことが、果たして一度でもあるのだろうか。


 もしかすると彼女は、人生で一度も鼻くそをほじったことがない。小学校時代に誰かに鼻くそを擦り付けられた記憶はあるかもしれないが、それは“他者の鼻くそ”だ。綾子の中には、“一人称の鼻くそ”が存在しないのではないか。


 そんな思考の果てに、鈴木はひとつの美学に辿り着く。


「鼻くそを知らぬ美——いや、鼻くそを知らぬがゆえの神聖。」


 それが事実ならば、今日の飲み会は鈴木にとって歴史的な一日になる。


 午前中に軽い朝食を済ませた鈴木は、気を紛らわせるように街を歩き、本屋を冷やかし、一人カラオケに寄ったりして時間を潰した。そして、18時半。幹事として「鼻くそ屋」の前に立つ。


 最初に現れたのは加藤。彼もまた綾子のことしか頭になさそうだった。


「綾子、まだ来てないのか?」


 続いて柳瀬が到着し、結局三人で入店することになった。


「とりあえず、乾杯するか」


 鈴木の号令でジョッキがぶつかり合い、飲み会が静かに始まった。


「名物の鼻くそ料理、いっとくか?」


 加藤の一言で、三人は鼻くそ料理の注文を決めた。店にはコースがA・B・Cとあり、Aがもっとも豪華だ。


「いつものAコースでいこう」


 やがて最初の料理が運ばれてきた。


「こちら、鼻くそたこ焼きでございます」


 見た目は冗談のようにリアルだった。茶色くごつごつとした外皮、ところどころ緑がかったトッピング。明らかに狙っている。


 けれど中には大ぶりのタコが詰まっていて、味は一級品だった。鈴木たちは笑いながら、それを次々と口に運んだ。


 そのとき、扉のベルが鳴った。


 振り返ると、綾子がいた。


「何を食べてるの?……あら、たこ焼き?ちょっと変わった形ね。でも美味しそう」


 鈴木は息を呑んだ。


「これ、鼻くそたこ焼きっていうんだ。鼻くその形を再現してるんだけど、味は本物なんだ」


「へえ、ユニークね。ひとついただいてもいいかしら?」


 彼女は何のためらいもなく爪楊枝を手に取り、たこ焼きを突き刺した。


「爪楊枝より箸の方が食べやすいよ?」と柳瀬が言ったが、綾子は構わず食べた。


「うん、美味しい!」


 その反応は、あまりにも“普通”だった。あっさりと、疑いなく、穏やかに。鈴木の中で、何かが揺らいだ。


(彼女にはこれが“鼻くそ”に見えていないのか? それとも……見えていて、なお、あの顔なのか?)


 だが、それを確かめる術はない。


 ひとつだけ確かなのは——鼻くそAコースは、まだまだこれからが本番だということだった。


 鈴木は心の奥で、次なる料理と綾子の反応に、ただならぬ期待を膨らませていた。


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