無題の日記

浅葱ナ

序章【おやすみ、そしておはよう】

第1話「まだ夢を見ていた君へ」

 風を切る音がする。目の前の暗闇が目まぐるしく変化していくのを薄れゆく意識の中で知覚する。


 たぶん、もうすぐだ。


 既に大きく膨らんだ諦めを再度認識しつつ、大きく溜息を吐く。


 おそらく、それほど時間は経っていないのだろう。そんな気がする。死に際に時間がゆっくり感じる…とか、そんな感じのやつだろう。


 …折角だし、振り返ろうか。クソみたいな今生を。どこから狂い始めたんだろうか…ああ、たぶんあそこだ。お父さんが




 何かが潰れ、硬いものが砕ける音が辺りに反響する。光の届かない真っ暗な中、色の判別できない液体が撒き散らされる。掠れたような吐息が喉から零れ落ち、それは完全に動きを止めた。


 回想すらもままならないままに。


 既に思考も途絶え、生暖かな生の痕跡すらも消えかける。




「…おやすみ」


 冷たい声がした。




⬛︎⬛︎⬛︎




 紙袋に腕をつっこみ、中にある物体を掴む。黄色の表面、潰れた円柱を切り分けたような形状のそれの上面は焦げにより一部が黒くなっている。指先を仄かに温める、しっとりと柔らかいそれは…


「いっただきまーす!」


 チーズケーキだ。

 そして街の広場、噴水の縁に腰を下ろし、幸せそうにチーズケーキを頬張る少女が1人。


 道行く人の喧騒と、噴き出して流れる水の音をBGMに優雅なひとときを楽しんでいるのだ。




 そんな少女に向かって、1人の少女が近付いてくる。その少女は迷うことなく噴水の縁に座り、口を開く。




「ルクシアあんた…いっつもここにいるわね。暇なの?」


「おやおや、美少女の至福のひとときを邪魔するそちらはゾンネじゃないか。わざわざちょっかいをかけにくるなんて…暇なのかな?」


 ルクシアと呼ばれた少女は右隣に座ったゾンネと自分の間に紙袋を置き、尻を少し左にずらす。

 ゾンネは少し顔を顰めつつも紙袋を掴んでくしゃくしゃに丸め、距離を思い切って詰める。


「あちょっと、その袋まだ使うのに…」


「広げて使えばばいいでしょうが」


 ゾンネは丸めた紙袋をひょいと投げ、地面に落ちる前にキャッチ。それを繰り返す。


「…で、何か用?」


「暇人のあんたに仕事を斡旋してあげようと思ってね」


「余計なお世話だよ…」


 ルクシアはゾンネから目を逸らし、チーズケーキを齧る。


「自称美少女のあんたなら、ウチの看板娘になれるかもよ…?」


「自称じゃないって。誰もが認める美少女でしょ?…あとわたしはもー働いてるからね」


「そうなの?ずっとぶらぶらしてるから無職なのかと思ってたわ」


 ルクシアは自慢げに鼻を鳴らし、食べかけのチーズケーキを高らかに掲げる。


「そう、牧場でね」


「牧場?」


「そう、牧場。街からちょっと外れたところの草っ原にあるでしょ?あそこで雇ってもらってるんだよ」


 ルクシアはチーズケーキの最後のひとかけらを頬張り、少しベタついた指を舐めた後噴水の流水に手を触れて洗う。


「毎朝早起きして掃除に乳搾り!お昼時には餌やりして…ふふん、充実してるんだよ」


「にしては暇そうだけど」


「昼休憩が長いんですー」


「あっそ」


「それでは、わたしは行くよ。働きに、ね!それじゃあ!あ、紙袋返せ」


 ゾンネが放り投げた、丸まった紙袋をキャッチし、手を振った後人混みの中に消えていった。




⬛︎⬛︎⬛︎




 両目を見開き、自分の両手を凝視する。


 べっったりと指を覆う赤。その生暖かさを拭い去ろうと、必死で掌を服で摩擦する。


 視線を上げ、辺りの景色を視界に入れる。


 そこにあったのは……いや、何もなかった。完全な暗闇。それなのに自らの両の手だけはやけにくっきりと。




「おはよう」




「っはぁ……っ!」


 まただ。


 服に染み込んだ汗が体温を奪う。ベッドの傍のテーブルの上のコップを手に取り、中の水を飲み干す。


 カーテンの隙間から覗く空は薄暗く、陽が登っていないことが確認できる。




 悪夢。もう何度目になるだろうか?ルクシアがこの街に住み始めてから幾度となく見せつけられてきた。


「はぁ…行くか」


 ルクシアはベッドから出ると布団を整え、寝汗が染みついた服を脱ぎ捨てた。腕や背中、腹に刻まれたにちらと目をやりつつ、動きやすい服装に着替える。

 肩まで伸びた髪を後ろでひとまとめに縛り、カーテンを開け放った。




⬛︎⬛︎⬛︎




「おーい、そこのウェイトレスさん。ミルクを一杯お願い」


「はーい…って、ルクシアじゃない。何しに来たの?」


「やあゾンネ。見てわからない?食事だよ」


 ゾンネはうんざりしたような表情を一瞬浮かべ、大きく溜息を吐く。


「今はそんなに混んでないし、ゾンネも一杯飲んだら?ほら、ミルクって厄払い?みたいな効果があるって言うじゃん。ゾンネのその残念な性格も治してくれるかもよ?」


「うっさいわね」


 ルクシアはゾンネの反応に対しにやりと口の端を上げ、言葉を続ける。


「いやー、もしその嫌ーな性格が治ったら、アイツの気を引けるかもよ?」


「は、はぁ?なに言って…」




「やあ2人とも。何話してたんだい?」


「噂をすれば…やあヴェガ。座りなよ」


 ヴェガと呼ばれた青年はルクシアの促すままにルクシアの隣に座る。


「なっ、ななななななんでここに…」


「うん?食事をしに来たんだよ。見れば分かるだろう?」


 顔を真っ赤にしながら慌てふためくゾンネの口から飛び出た言葉に対し、ヴェガはにこりと笑って返答する。

 更に顔が赤くなる。そんなゾンネの反応を見るとルクシアは心底愉快そうに口の端を歪め、それを見せまいと口を手で隠す。くすくすと小さな笑い声を漏らしつつ、人差し指で木製の丸テーブルをとんとんと叩き、一言。


「ウェイトレスさ〜ん、ミルクはまだかね?あ、ヴェガもミルク飲む?」


「じゃあ、お願いしようかな」


「んじゃミルクを3杯ゾンネの分も、よろしく〜」


「る、ルクシア…あんたねぇ…!」




 吊るされたランプから漏れる橙色の光が辺りを照らす。テーブルは笑いで満たされ、晩餐は始まりを告げる。

 カトラリーは軽快な音を立て、きっと誰もが今日を讃美する。そして幸せな食卓にお開きが近づくにつれ、夜が街を優しく包み込み、我々にこう囁くのだ。




「おやすみ」


 耳に吐息が触れる。




⬛︎⬛︎⬛︎




 笑い声が聞こえる。


 ぱちり。暗闇の中、瞼が開く。


「うぅ〜ん…ここどこ…?」


 呟きが辺りに反響する。水の滴る音が疑問に答えるかのように連続して響き、鼓膜を揺らす。


 声の主はどうやら考えていても無駄だと判断したらしく、冷たい暗闇の中で立ち上がることを決意した。

 恐る恐る手を地面に這わせ、立てるだけの平面を探す。


 そうして手を地面についたまま腰を持ち上げ、2本の足で直立。そのまま伝える壁を探そうと手を前に突き出して歩き始めたところで…




「ぅおっ!っとっとっと…危なかった…なんか滑るなぁ」


 小さく息を吐き出し、今度はより慎重に壁を探る。

 壁を見つけると湿り気のあるそれにぴたりと張り付き、ゆっくりと前に進み始める。




 …がしかし、声の主は少し歩いた後にその緩やかな歩みを止めた。


「…誰かいる?」


 疑問を暗闇に投げかける。返答は無い。

 声の主には蔑みを含んだ哄笑が届くだけであった。


 ぴちゃり。水滴が水面を揺らす。


 笑い声は止まった。再び恐ろしい静寂が声の主を睨め付ける。


「……っはは…は」


 掠れた笑い声が漏れる。手足が脱力し、声の主はそのまま地面にへたり込む。




 枕を濡らしたあの日の記憶が浮いては沈む。拒絶に似た嗚咽だけが、静けさを貪っていた。




★★★




 みなさんおはよう、こんにちは、あるいはこんばんは!作者です。


 陰鬱ダークファンタジー、開幕だー!


 2話以降ですが、第1話公開時点で執筆中の第一章が書き終わり次第毎日更新とさせていただきます。1話だけ先に公開するのは…記念日的なアレを重視した結果です。


 今後も時々、この★の下のコーナーでいろいろと捕捉、お知らせなどあると思いますが、ぶっちゃけ見なくていいです。作者の語りいらねーって方は本編のみお楽しみください!


 以上!次回第2話「幸福の刹那」…近日公開!!

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