転写者たち

会話のカモメ

プロローグ

【1】意味の残響

 水無瀬カズトは、“それ”のことを詩と呼んだ。


 かつて言葉には意味があった。声にすれば、意図が伝わった。文字にすれば、誰かの心に触れた。けれど今、その機能は失われている。言葉は、ただの音になった。文字は、ただの模様になった。記号は、意味を帯びることなく、ただ視界を滑っていくだけのものになった。


 世界は静かだった。都市は崩れ、通信は沈黙し、人々はかつてのように語り合わなくなった。言葉が壊れたからではない。言葉が、空虚になったからだ。


 単語はまだ残っている。辞書もアーカイブも、完全な形で保存されている。だが、誰も読まない。読んでも、理解できない。理解できても、それが「意図」を伝えていると、誰も感じなくなった。


 それでも、水無瀬カズトは詩を書いた。


 言葉が意味を失って久しいこの世界で、詩を書くという行為は、もはや狂気とさえ見なされる。誰にも届かない、何も動かさない、ただ空に向けて無音の叫びを繰り返すだけの徒労。それでもカズトは書いた。鉛筆で、廃墟の紙に。光の消えた端末に、電源をつながぬまま。ときには、口の中でひとりつぶやきながら。


 意味は存在しない。だが、意味がかつて存在した「痕跡」は、確かに残っている。


 例えば、「祈り」という言葉。意味は失われた。だが、それを発音したときの声の震え、書かれた文字の端のわずかなかすれ、誰かがそれを残そうとした「意志」だけは、どこかに沈殿している気がするのだ。


 誰も気づかないほどの微細なノイズ。

 誰にも解読できないほど歪んだ残響。


 カズトはそれを聞こうとしていた。

 耳ではなく、意識の奥底で。

 論理でもなく、感性の名残で。


 彼は、意味の亡霊を探していた。


 かつてこの世界にあった「意味」という構造の、断片。失われる以前の言葉たちが、確かに何かを伝えようとしていたあの感覚。誰かが語りかけ、誰かがそれを受け取っていた時間。今では誰も信じなくなった、過去の真実。


 彼は、信じていた。

 意味は、どこかに残っている、と。


 詩は、ただの文字列ではない。

 それは意味の「形式」の最後の残滓。

 誰かが意味を創り、誰かがそれを受け取る――そのための「構造」がそこにある。だから、カズトは詩を書き続ける。たとえ世界がそれを無意味だと断じても。


 詩は祈りに似ていた。だがそれは信仰ではない。再構築の手続きだった。


 意味を失ったこの世界に、もう一度「意図」を刻む。

 理解されることのないままに。

 解釈されることのないままに。

 それでも、確かに「そこにある」と知るために。


 水無瀬カズトは、今日も詩を書いていた。


 世界の終わりの、そのさらに先で。

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