書くことは息をすることなりて~創作と共に生きる私の現在地~

橘夏影

物書きの呼吸

 発芽さまの自主企画に参加させていただいております。


 『あなたはなぜ、書き続けているのですか?』

 https://kakuyomu.jp/user_events/16818622172449360019


 これまで同様のことは、他エッセーや作中のキャラクターに仮託する形で書いてきましたが、こういう振り返りのご機会は大切にしたいなと。


 

●子供時代(小学生や中学生の時)で文を書くことについて、どう感じてたか


 書くことが好きだ、と自認したのは中学の一年か二年の頃ですね。

 国語の授業中に教師から「お!え?お前すごいな!」みたいな驚きの反応を得られたことがきっかけです。

 人を伸ばすには「褒める」のではなく「驚く」ことが大事だと常々おっしゃられているのは、篠原信様。『子どもの地頭とやる気が育つおもしろい方法』の他、会社員のコーチング関連の著作も書かれている方ですが、確かにそうなのだろうと実感します。

 当時私の自信やら自己肯定感といった類のものは、某中古車販売店の前の並木の如く枯れ散らかされていたので、嬉しかったんだと思います。

 

 じゃあ小学生の時分はどうだったかというと、感想文の類も嫌いではなかったと記憶しています。

 小一くらいの頃に「すごくすごくすごくすごくすごくすごくすごくすごくすごくすごくすごくすごくすごく嬉しかった」みたいな文章を書いたら母親にドヤされて、その時に文章を書くということを叩き込まれましたが、これは親に対して素直に感謝したいことのひとつです。

 『なぞのブヨブヨ事件』みたいなタイトルで、給食で出た鯖の味噌煮かなにかの上に乗ってる気色の悪い物体について書いた感想文(結論、それは生姜だったんですが)が妙にウケたり、どういう経緯でかクラス劇の脚本を書くことになり、童話か何かをパロディにして普通の三姉妹を酒乱にしたり好き勝手書いていた記憶もあります。ただ特別書くことが好きだったという記憶もないんです。当時の私は絵を描くことの方が好きだったからかもしれません。もっとも、好きなものほど一度手放してしまうと周囲に水を開けられた気がして、触れられなくなってしまったりするんですけどね。


●なぜ小説を書きたいと思い、今もなお書いてるのか


 3Qクオーターほど前の時期に、気がついたら書き始めていました。

 理由は正直なところ、よくは分かりません。

 なんとなく、他人の人生を生きているような焦燥や絶望が限界を突破したのかもしれません。

 書かずにはいられなくなったのです。


 よく、創作をしたいがなかなか着手できず悩んでおられる方に対して、そういうことを考えている時点でダメだ、気づいたら書いているものなんだ、といったどこか突き放すような言説を目にします。

 その意味では、私もそういう、気づいたら書いている一人になったのかもしれません。

 ただ、横道に逸れるようですが、そういうチャレンジしようとする方を〝ワナビー〟と呼んで蔑むような傾向は好きになれません。

 なんですか、〝ワナビー〟って。ワラビーの親戚ですか?かわいいですね。

 自分は創作のためにこれだけ努力し積み重ねてきたんだから、相手にもそれを求めているに過ぎない。そうおっしゃる方もいるやもしれませんが、そういう動機や努力できる環境があること自体が幸運なんです。

 そこにどれだけ苦難がセットだったとしても、です。

 努力は認められ評価されるべきですが、過剰な礼賛には注意が必要です。

 だから〝ワナビー〟向けの創作論なんてものは、大抵はただのマウントか自慰の類だと思っています。

 無論、本当に支援しようと思って〝わたしの場合はこうだったんだけど、参考になれば〟というような寄り添いを否定する気持ちは全くありません。それは別物だと思っています。

 厳密にはそのふたつの境界は曖昧です。善意である、という気持ちが己をも騙す時もある。なので、私がもしそういうことを話す必要に迫られたら、独り言として話すでしょう。

 よく政治ドラマなんかであるやつです。エレベーターの中、ふたりきりのシチュエーション、重要な機密事項を話し、「まぁ、独り言だがね」と締めるやつです。かっこいい。

 上手くカタチに出来ないもどかしさ、それも含めてその人の人生の味わいだし、それがいつか書くことに結びつくかもしれない。結びつかないかもしれない。それはもう分からない。そう思っています。

 

 話を戻しましょう。

 先ほど、自分は文章を書くことが好きだと述べましたが、中学高校の頃に書いてたのは論説ようのような類のものばかりで、小説は一度書こうとしたものの「ありきたりだ」と友達に言われてすぐ諦めていましたね。

 そもそも私は読書量も少なかったので、いざ書こうとした時に、引き出しの少なさや、自分がいかに他人に興味が薄いのかということに絶望した気がします。その認識は実はいまでもあまり変わっていません(よく書いてるな)。

 ただ私はそれでもどこかで物語を求めていた。

 そして大学進学後に村上春樹先生の作品にドハマりしたのが、私の現在の根幹を形成しています。

 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を入り口に、当時刊行されていたほとんどの著作を読み、いまでも『ねじまき鳥クロニクル』と『ダンス・ダンス・ダンス』は最も好きな著作のひとつです。

 その後、他の著者の方の作品に手を伸ばしてみたもののどうもしっくり来ず、そこで気づいたのは、私はプロットよりも文体自体に魅力を感じないと自発的に読もうという気にならないということ。

 あるいは、私にとっては、ヨムこともカクことも、絵を描くことの代償行為なのかもしれません。

 ただ同時に、ものすごい美文で読者を圧倒するというよりは、余白を残しておきたいという気持ちもあります。

 

 ちなみに私の大学時代の読書は、村上春樹以外は社会学系や宗教学、教育学、情報文化系の学術書が主だったので、私の書く物から漂う独特の胡散臭さはそのためです。

 関連で、最近交流が生まれた皆さまの作品を読む中で、読むのが遅いことについて思索することも多いのですが、ひとつは読みながらつい立ち止まって考えこんでしまう癖も影響しているのかも、と思います。

 読み切ってから考えればええやん、と言われるかもしれませんが、どうかそんな仕事みたいなことを言わないでください。

 ともあれ、いまは交流のある方の作品を読みたい、その方を知りたい、という動機が得られ、さらに無料で読めるという環境には、本当に感謝しなければなりませんね。

 いまの私は物書きの呼吸壱ノ型しか使えないようなものなので、他の型も使えるようにインプットを増やし、修練を重ねていかねばなりません。

 

●たとえ読まれなくても書く、という原動力


 これについては、長々と語るつもりはありません。

 というのも、前述の内容と被るためです。

 私にとって書くことは息をするようなものであり、代わりの呼吸法が見つからない限りは、書くしかないのです。

 息をすることすら億劫になる瞬間はあります。そういう時は、書けません。

 でも食事を摂ろうと思える程度に元気になれば、書きます。

 いまが、まさに、そう。


●あなたにとって小説とはなんですか?


 自己との対話、という側面もありつつ、理念的なことを言えば、声になりづらいものの声を言葉にしたい、というのはあるかもしれません。

 その対象は、しばしば些細な事物にもなると思います。

 分かりやすい不幸や困難は、感動ポルノ的に語られやすいからです。

 その意味で、分かりにくさ、ということは意識しているかもしれません。

 そしてまた、当事者性ということにも注意しています。

 流行っているから、ウケが良さそうだから、そういうどこか他人事でビジネス的な理由で暴力や悲劇を描くことに抵抗がある。

 描くには、自分勝手な理屈でもいいから、何か自分の中にきちんと必然性を醸成してからでないといけない。

 そういう面倒くささが、私にはあります。

 このあたりはロジックというよりは意地みたいなものですね。


 さてでは、そんな私がいまどういうものを書いているのかと言えば、現代ファンタジーです。幻想小説と言ってもいいかもしれません。

 純文学っぽい、とご評価いただくこともあります。そうした言葉は頭を地に擦りつけてありがたく頂戴するのですが、私の中での勝手な純文学観というのは、一応あったりします。

 それは、もっとざらついて濁っていて写実的であり、しばしば救いがなくスパイシーで、生々しくて、でもきちんと生きるための糧になるもの。そういうイメージがあります。純文学観というか、ただの持論ですね。自分が書くならそういうものにしたい、という。そういうものも、いつかチャレンジしたいものです。

 そして最近はエッセーばかり書いているという。振り返りが必要な時期なのだろうと思います。


 長々と書き連ねましたが、以上です。

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書くことは息をすることなりて~創作と共に生きる私の現在地~ 橘夏影 @KAEi_Tachibana

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