螺旋階段の果てに

れおりお

第1話 目覚めの混濁

目が覚めると、私は天井を見つめていた。見慣れぬ天井ではない。それでいて、どこか馴染みのない角度から眺めているような気もする。


私の脳は、目覚めとともに不思議な速度で回転を始めた。早すぎず、遅すぎず。まるで古い蓄音機のレコード盤のように、一定のリズムを刻みながら。記憶という針が、溝に沿って進んでいく。しかし、その溝には傷があるようだ。針は時折跳ね、音楽は途切れる。


「ここは…」


声に出して言いかけて、答えが分からないことに気づいた。ここがどこなのか、なぜ私がここにいるのか。どこか引っかかる感覚。まるで舌の上に載せた飴玉が、溶け切らず残った角のように。


ゆっくりと身を起こすと、部屋の全容が見えてきた。六畳ほどの広さ。シンプルな造りだが、どこか計算された美しさがある。窓からは柔らかな光が差し込み、床に不規則な四角形を描いていた。


「ああ、そうだ」


思い出した。ここは螺旋館。私自身が設計した高齢者総合ケア施設だ。なぜ私がここにいるのか——その答えは、まだ霧の向こう側にある。


「起きたの?」


振り返ると、母がいた。九十を越えたその姿は、背が縮み、皺が刻まれながらも、凛とした美しさを失わない。母は窓際の椅子に座り、何かを編んでいた。


「ええ、今起きたところだよ」


言いながら、私は違和感を覚えた。母がここにいることに、何の疑問も感じなかった自分に。だが、そんな違和感はすぐに消え去った。母がここにいるのは当然のことだ。母は認知症を患い、私の設計したこの施設に入居しているのだから。


「また寝坊したわね」


母は編み物の手を止めず、微笑んだ。朝日はまだ低く、その光は母の横顔を優しく照らしていた。しかし、窓の外に見える風景は、何かがおかしい。建物はこの高さからでは、もっと違う景色が見えるはずなのに。


「今日は何日?」


私は尋ねた。単純な質問のつもりだったが、母の表情がわずかに曇った。


「火曜日よ」


日付ではなく曜日で返ってきた。これも認知症の症状のひとつだろうか。私は追及せず、ベッドから完全に起き上がり、床に足をつけた。冷たい。想像以上に冷たい床。設計時に床暖房を入れたはずなのに。


「朝食は?」


「もう済ませたわ。あなたの分は台所に置いてあるから」


台所?このタイプの居室には台所はないはずだ。私はよろめきながら立ち上がり、ドアに向かった。開けると、そこには確かに小さな台所があった。私の記憶にはない設備が。


「おかしいな」


呟きながら台所に立つと、テーブルの上にトーストと卵、それにオレンジジュースが用意されていた。朝の光がガラス越しに差し込み、オレンジジュースを琥珀色に輝かせている。美しいセッティングだ。しかし、私はこれを誰が用意したのか思い出せない。母には無理なはずだ。


食事を摂りながら、私は窓の外を見た。建物の一部が見える。螺旋状に上っていく外壁。私のデザインだ。だが、どこか違和感がある。角度がわずかに異なる気がする。もう少し急勾配だったはずなのに。


「思い出せないんだ」


つぶやくと、その言葉は部屋の中でこだまし、私自身に返ってきた。何を思い出せないのか。なぜ私がここにいるのか。どうして他の入居者や職員の姿が見えないのか。


食事を終え、部屋に戻ると、母はまだ編み物をしていた。まるで動いていないかのように、まったく同じ姿勢で。


「少し散歩してくるよ」


母は黙って頷いた。私は廊下に出た。長い、長い廊下。両側に同じようなドアが並んでいる。しかし、どのドアからも物音は聞こえない。誰もいないかのように。


廊下を歩きながら、私は指で壁をなぞった。私が選んだ素材。触感まで記憶している。しかし、違和感は消えない。廊下の長さが、記憶より長い気がする。


「今日もまた、廊下は五メートル伸びていた。いや、縮んだのかもしれない」


独り言を言いながら歩き続けると、中央の螺旋階段に辿り着いた。私のデザインの核心部分。上を見上げると、階段は天井まで無限に続いているようだ。下を覗き込むと、底なし沼のように闇が広がっていた。


段差の高さ、手すりの角度、すべて私が計算したもの。だが今、この階段は私に語りかけてくる。「上ってみないか」と。


一段、また一段と上り始めると、階段の途中で、小さな人影に気づいた。


幼い少女だ。


彼女は私を見つめ、そっと微笑んだ。見覚えのない顔だ。彼女はどこから来たのだろう。この施設に子供がいるはずがない。


「こんにちは」


声をかけようとした瞬間、少女の姿は消えていた。幻だったのか。


階段を一周上ると、元の階とほぼ同じ光景が広がっていた。同じドアが並ぶ廊下。しかし、何かが違う。壁の色が、わずかに濃くなっているように見える。


私は自分の部屋を探そうとしたが、すべてのドアが同じに見えた。番号もなければ、標識もない。記憶を頼りに進むと、それらしきドアにたどり着いた。ドアを開けると、中には母がいた。しかし、部屋の形が朝とは異なっていた。窓の位置が変わり、ベッドの向きも違う。


「母さん、この部屋…」


「何か問題でも?」


母は平然と尋ねた。まるで何も変わっていないかのように。


「いや、なんでもない」


私は答えながら、自分の記憶を疑い始めていた。朝見た部屋と違うのは確かだ。この建物は呼吸している。設計者である私でさえ、もはや理解できない意思を持って。


ドアが開き、40代くらいの女性が入ってきた。白衣ではなく、シンプルなスーツ姿。


「お加減はいかがですか?」


彼女は私に向かって尋ねた。


「ええ、まあ」


曖昧に答えると、女性は小さくメモを取った。


「母も元気そうだ」


付け加えると、女性の表情が一瞬凍りついたように見えた。


「そうですね」彼女は言った。「では、また明日伺います」


女性が去った後、窓の外を見ると、日は既に傾いていた。あれほど朝だったはずなのに、いつの間にか夕方になっている。時間の感覚まで歪んでいるようだ。


「母さん、私たちはなぜここにいるんだっけ?」


編み物を続ける母に尋ねると、母は静かに答えた。


「あなたが連れてきたのよ」


その言葉は、何かを思い出させるきっかけになりそうで、ならないもどかしさ。記憶の欠片が、意識の奥底でかすかに光る。だが、掴もうとすると消えてしまう。


「そうだったね」


私は窓辺に立ち、自分の設計した建物の外観を眺めた。螺旋状に上昇していく美しい曲線。しかし今、その曲線は私を包み込み、閉じ込めているようにも思える。


窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。六十七歳の老いた顔。しかし、その目には、まだ答えを求める光が残っている。


「明日は、もう少し上の階まで行ってみよう」


自分自身に言い聞かせるように呟いた私の背後で、母の編み針がリズミカルに動き続けていた。カチ、カチ、カチ…まるで時を刻む時計の針のように。


そして再び、階段の途中で、あの少女の姿が見えた気がした。今度は、彼女は上を指さしていた。


上に何があるのだろう。螺旋階段の果てには。

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