煽り運転の代償
広川朔二
煽り運転の代償
高城雄一は、都内にある中小企業の課長だった。業界では中堅に分類される物流系の会社で、年収は600万を少し超える程度。妻と高校生の息子がいるが、家庭内では会話はほとんどなく、顔を合わせればため息か口論。最近反抗的な態度をとる息子へ手をあげ暴言を吐いたこともある。それでも近所では「しっかり者の父親」として振る舞い、職場では「頼れる中間管理職」を気取っていた。彼にとってはそれが全てだったのだ。
「男はさ、背中で語るもんだよな」
通勤途中の喫煙所でそう呟きながら火を点ける。誰も返事はしない。だが雄一はそれでいい。誰かに受け入れられているフリができれば、それで十分だった。
しかし、車に乗ると、雄一はまるで別人になる。いや、その本性が剥き出しになる。
「おい、遅ぇんだよクソ軽が……チンタラ走ってんじゃねえよ」
口癖のように吐き捨てながら、ミラー越しに前方の軽自動車を睨む。クラクションを二度鳴らし、右車線からギリギリのタイミングで追い越す。助手席には誰もいないが、「ちゃんとどけよバカ」と誰かに向けたように悪態をつく。気が治まらない時は、車間距離を詰め、パッシングをし嫌がらせをした。時間に余裕さえあればとことん相手の車を追い詰めてはストレス解消をしていた。チンタラは知っているのが悪い、自分を追い抜くのが悪い、と自分勝手で間違った意識のままに。
その日も、いつもと変わらぬ“自分の正義”を貫いていた。
日曜の昼下がり、湾岸沿いの国道。休日のドライブに出かけていた雄一は、後ろから猛スピードで追い上げるバイクに苛立ちを覚えた。
「なんだよチンピラか……調子乗ってんじゃねえぞ」
追い越されそうになるや否や、雄一は加速した。進路を塞ぐように走行し、急に進路を塞ぐようにハンドルを切る。隙間を縫って追い越していったバイクを追走し、何度もパッシングをする。再びバイクを追い抜き、急ブレーキをかけた。バイクは慌ててブレーキをかけ、蛇行しながらなんとか体勢を立て直した。
雄一はバックミラーを覗き、ニヤリと笑う。
しかし次の瞬間、バイクの男が停車し、スマホを取り出したのが見えた。ナンバープレートと運転席を、無言で撮影している。
「……あ? おい、なに勝手に撮ってんだコラ」
車を停めて降りようとしたそのときには、男はすでにバイクにまたがり、何事もなかったかのように走り去っていた。
サングラス越しのその目は、まるで“感情”を欠いたように見えた。
「チッ……変な野郎だな。ま、どうせ何もできねぇだろ」
窓を閉め、再びアクセルを踏み込む。
その瞬間まで、高城雄一は信じて疑わなかった。
自分が“社会の正義”の側にいるのだと。
最初の異変は、意外にも会社だった。
月曜の朝、デスクに着いた雄一は、部長に呼び出された。個室に入ると、PCの画面にはドライブレコーダーの映像が映っていた。
「これ、お前の車だよな?」
そこには、例の煽り運転の一部始終が映っていた。急な割り込み、クラクション、罵声、前方を蛇行するバイク……そして、その背後から迫る黒いセダン。それは紛れもなく雄一の運転で、どれもが最近のもので見に覚えがあった。
「いや、これは……相手が、危険運転してきたから……」
言い訳を並べる雄一に、部長はため息をつきながら言った。
「匿名で送られてきた。俺としても信じたくはないが、コンプラの時代だ。こういうの、放っておけないんだよ」
結果、厳重注意という形で処理されたが、社内の空気は明らかに変わった。同僚たちの視線がよそよそしくなり、若手社員たちは露骨に距離を置くようになった。いや、それは雄一の思い込みで元々煙たがられていた彼を忌避する表向きの理由が出来ただけ。
翌週には、地域掲示板に「煽り運転の常習犯」としてナンバープレートと顔写真が晒された。車種、車体カラー、さらには雄一の自宅の外観まで──あまりにも詳細な情報が、まるで誰かが張り付いて監視していたかのように書かれていた。
妻がそれを発見したのは、夜の十時過ぎだった。
「ねえ、これ……あなたでしょ?」
タブレットを突き出してくる彼女の目は、怒りよりも呆れに満ちていた。
「だから違うって言ってんだろ、こんなのネットの嫌がらせだよ」
「でもこの服……この車……この家……全部うちのじゃない。何が“違う”のよ」
口論の末、妻は「子どもには関わらせたくない」と言い、翌日には息子を連れて実家へと帰っていった。
職場でも再び問題が起きた。営業部のグループチャットに、「社用車を使った危険運転について」という匿名の投稿が流れたのだ。運転席にいるのは雄一だ。さらに投稿には録音データの添付まであり、内容は雄一が車内で部下を罵倒する様子だった。
「使えねぇなマジで、お前はよ……仕事ナメてんのかコラ」
その録音された声は紛れもなく雄一自身のものだった。
それがきっかけで、社内の空気は完全に凍りついた。上司には再度呼び出され、「降格もあり得る」と告げられる。数年越しで狙っていた係長から課長への昇進も、白紙に戻った。
自宅のポストには、差出人不明の封筒が届いていた。
中には、白い紙が一枚。
《録画済》《録音済》《次は家族》
──血の気が引いた。
警察に相談しても、「脅迫とは断定できない」と一蹴される。
「……あのバイクの野郎か……?」
脳裏に浮かぶのは、あの無言でカメラを向けてきた男の顔。
しかし、どうやってここまで詳細に情報を集めた? なぜ会社にも家庭にも正確に嫌がらせができる?
雄一は夜も眠れなくなっていった。
会社でも浮き、家庭も失い、街中で誰かに見られているような感覚に襲われる日々。
彼の“完璧な外聞”は、音を立てて崩れていった。
五月のある夜。雄一が帰宅すると、玄関の扉に何かが貼りつけられていた。
それは、数日前にコンビニで購入した缶ビールのレシートだった。しかも、同時刻に雄一が立ち寄った店舗名と、商品、クレジットカードの下四桁まで記されている。
「……なんで、こんなもんが……」
ぞっとした。
玄関を開けると、室内の空気がわずかに違っていた。家具の配置が微妙にずれており、リモコンの位置も違う。妻と息子が出て行って以降、誰も入るはずのない空間に、誰かの気配があった。
すぐに警察に通報したが、被害届の受理までは至らなかった。窃盗も侵入もなければ、証拠もない。
「気のせいでしょう」と言われるたびに、雄一の神経はじりじりと焼かれていく。
ある日、駅前の人通りの多い歩道で、雄一は見知らぬ男とすれ違った。ごく普通の黒髪、目立たないシャツとジーンズ。しかし、目だけが異常に冷たい。
すれ違いざま、その男が小声で呟いた。
「……お前、よくあんなことして生きてられるよな」
雄一は振り返ったが、すでにその男の姿は見えなかった。
同じ日、会社の自席のPCに、USBメモリが差し込まれていることに気づいた。中には、一連の煽り運転の動画だけでなく、家族との口論、息子への暴言、会社内でのパワハラ行為まで、膨大な録音・録画データが保存されていた。
誰が? どうやって? どこから?
混乱の極みにいる中、USB内のフォルダに一つだけ、他と違う名前の動画があった。
《seisai_intro.mov》
動画が始まると、真っ白な部屋で椅子に座る一人の男が映った。サングラスにマスクで表情はわからない。男はゆっくりとした口調で話し出す。
「はじめまして、高城雄一さん」
──あの日のバイクの男。まちがいない。一度見ただけの男、さらに画面上の男は顔がわからないが、雄一には何故かそれが確信めいていた。
「あなたは、社会的に有害な人物です。私はそれを“是正”することにしました」
彼は名乗った。
「私は制裁者です」
以降、雄一の生活は急激に加速度を増して崩壊していく。
・出勤途中、何者かに尾行されていることに気づき、車を乗り捨てて逃げる
・実家に嫌がらせ電話が相次ぎ、両親からも絶縁される
・夜中にドアノブが「カチャ……カチャ……」と何度も揺れる音
・家の近所に貼られた中傷ビラ、「危険運転者 高城雄一」の文字
・地域の掲示板に貼られた盗撮写真
限界だった。
逃げようとした。地方に移住しようと、物件を探し、名義変更を進め、連絡先も全て変えようとした。
しかしその夜、新たなUSBが郵送されてきた。中に入っていたのは、転居しようとしていた物件情報。そして、音声ファイルには最後にあの男の声。
「あなたがどこに逃げようと、終わりは変わりません」
自分の一挙手一投足──全てが網羅されていた。
「これは……犯罪だ……警察に……」
震える手でスマホを取る雄一。しかし、追い詰められていた雄一にはすべてが疑わしく思えた。そう、警察さえも。自分にはもう、味方がいない。家族も、同僚も、友人も──全てが自分を白い目で見ている。
もう社会的な地盤を失った男は、叫ぶことすら出来なかった。いや、許されなかったのだ。
そのとき初めて、彼は“本当の恐怖”を知った。
夜。電気の消えた部屋。玄関のチェーンが「カチ……」と外れる音が聞こえる。誰かが監視している。自分以外誰もいない家で足音が聞こえる。
精神を病んだ雄一は、ソファで震えていた。
暗闇の中スマホが光り、メールの着信を伝える。恐る恐るそれを開くと、メッセージが一文だけ書かれてあった。
──地獄は、まだ“終わっていない”。
数日後の夜、高城雄一は古いビジネスホテルの一室に身を潜めていた。職場は休職扱い。電話をかけても妻は出ない。通帳の残高は減る一方で、ATMで何度も暗証番号の打ち間違いが続く。手が震えていた。
──もう、ここまでかもしれない。
もはや外出することもできず、カーテンを閉めた部屋の隅で、小さなテレビの音にすがるようにして時間をやり過ごしていた。携帯の電源は切ってある。制裁者からの“次”が来るのが、ただただ怖かった。
そんな深夜二時。
ドアの向こうから、ノック音がした。
──トン、トン、トン。
鼓動が跳ね上がる。
誰も来るはずがない。何重にも施錠したドア。それでも音は続く。
──トン、トン、トン……。
「……やめろ……やめてくれ……」
震える声で叫ぶが、返事はない。
息を殺し、耳を澄ます。足音は……去った。
安堵のあまり床に崩れ落ちたそのとき、背後のバスルームの扉が、ギィ……と音を立てて開いた。
そこにいたのは──あの男だった。
「こんばんは、高城さん」
無言で立つその姿は、暗闇に溶け込んでいた。
「どうして……なんでここに……!」
問いかけに答えず、制裁者はただ一歩、また一歩と近づいてくる。
「あなたはね、“社会的に抹殺”されるだけでは足りない人間だと思ってます」
そこからの記憶は断片的だった。
殴打、蹴り、指の骨が折れる音。熱い鉄のような痛み。何かが焼きつくような激痛。
男は冷静だった。一言も怒鳴らない。ただ“必要な手順”のように淡々と、雄一の身体を壊していく。
──目が覚めたとき、雄一は病院のベッドにいた。
顔の左半分は腫れ、数本の歯が折れていた。肋骨にヒビ。左手はギプス。意識は朦朧とし、何が現実で何が夢なのか、判別がつかなかった。
何故か雄一が発見されたのはホテル近くの公園だった。
警察はやってきたが、雄一の証言には曖昧な部分が多く、ホテルの防犯カメラには雄一が証言するような怪しい男は映っていなかった。
「通り魔の可能性があるが、雄一の証言には曖昧で怪しい部分が多々見受けられる」と、刑事は去った。
退院後、雄一にはもう住む家も、帰る場所もなかった。
職場からは正式に解雇通知が届き、口座も何者かに凍結処理がされていた。実家には手紙を出したが、二度と返事は来なかった。
公園のベンチに座り、壊れたスマホを握りしめていると、横に誰かが腰掛けた。
──マスクもサングラスもしていないがそれはあの制裁者だった。雄一が確信していた通り、バイクの男。
制裁者は淡々と告げた。
「高城さん。僕の制裁は、これで終わりです」
「……な、何が……終わりだよ……」
「あなたは、もう“社会にとって存在しない人間”になりましたから」
立ち去ろうとする制裁者に、雄一は縋るように叫ぶ。
「お前……人間じゃねえ……あんたは、悪魔だ!」
男は立ち止まり、背を向けたまま言った。
「知ってますか?悪魔よりも、人間のほうが怖いですよ」
そして、静かにその場を去っていった。
──数か月後。
東京郊外の河川敷で、やせ細った男がひとり、空き缶を拾っていた。
誰にも気づかれず、誰にも話しかけられず、目を合わせる人すらいない。
その男の名は、もう誰も知らなかった。
彼は、ただひとりごとを呟きながら、生きていた。
「……俺は、間違ってなかった……間違ってねえんだよ……」
空っぽの目が、笑っていた。
煽り運転の代償 広川朔二 @sakuji_h
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