第5話-1 契約は守って下さい

 練習後、文は阿熊と一緒に帰りながら、ありがとうございますと礼を言った。


「阿熊さんがあんなに歌がうまいなんて意外…いえ、知りませんでした。これなら本番もばっちりだと思います。黒田さん一人になっちゃって、どうしようかと皆、不安だったので…」

「黒田…というのは、あの男性の?」

「はい。会議室に入る前に会って、紹介しましたよね?」


 覚えてないのかと聞く文に、阿熊は無言を返す。何やら考え込んでいる様子を文は不思議に思いつつ、次回の練習もよろしくお願いしますと頼んだ。


「本番に向けて、あと二回練習がありますので。木曜日と土曜日です」

「分かりました」

「お仕事とか、大丈夫ですか?」


 文も櫂と同じく、阿熊は働いていないんじゃないかと思っていたが、とりあえず聞いてみる。阿熊のプライベートが気になっていたから、探りを入れる意味もあった。

 しかし、阿熊は、「はい」と頷いただけで、それ以上は何も言わない。文は無視されるのを覚悟で更に質問する。


「あの、お仕事は何を?」

「仕事…」

「お勤めしてる感じはしないなって。在宅の仕事とかなんですか?」

「いいえ」


 阿熊は否定するが、やっぱりその先は続けようとしない。これはやはり働く必要がないくらいの資産があるという自分の見立てが合っているのではないかと、文は推測する。しつこく聞き続けるのも失礼な内容だ。


 お金持ちほどケチだというし、弁当屋の二階に住んでいるのだって、不便を感じていないからかもしれない。服装がいつも同じで、質素なのもお金持ちだからだろう。


 そんな説で自分を納得させている内に、自宅に着いていた。阿熊は店の二階に続く階段を上がって行き、文はその背中に「お疲れ様でした」と声をかけ、路地を抜けた奥にある自宅へ向かう。


 玄関を開けるとすぐに、「どうだった?」と聞く櫂の声がした。


 櫂には今日から阿熊が合唱の練習に参加すると話してあった。絶対無理だと言っていただけに、興味があるらしい。靴を脱いで上がり框から居間に入ると、ソファで寝そべっている櫂に阿熊の歌が絶品だったのを伝える。


「すっごいうまかった。びっくりした」

「そうなの?」

「声を使った仕事をしてる…ううん、してた過去とか、あるんじゃないかな」


 してるのならば、どんな仕事をしているのか聞いた時点で話すはずだ。しかし、過去にしていた可能性はある。歌手ではない。たぶん、声優とか。

 文がそう言うと、櫂は「マジで?」と目を見張った。アニメ好きの櫂には聞き捨てならない情報だったようだ。


「あの人、なんて名前だっけ?」

「阿熊さん」

「あくま?」


 そんな名前の声優、いたっけな…と首を傾げながら、櫂はスマホで検索する。いないなあ…と首を傾げる櫂に、文は芸名があるんじゃない?と返した。


「あんたも聞きに来た方がいいよ。ふれフェス」

「えー」


 それは無理と言い、「でも」と櫂は続ける。


「今はやってないんでしょ」

「ガツンと稼いで引退したんじゃない?」

「そんな有名なひと?」


 誰なんだろうと気にしている櫂にほくそ笑んで、文は夕飯の支度をしに台所へ向かう。


 阿熊が声優をやっていたかもっていうのは、もしかしたらの話で、証拠は一切ない。ただ、彼の声がいいからというだけなのだが、すぐに信じてしまう櫂はまだまだ子供だ。

 反抗期の息子に対するささやかな仕返しが出来た小気味よさを味わいながら、卵かけご飯を用意した。



 次の練習でも阿熊は美声を披露し、ふれフェスの成功は間違いないと、すみれ先生は上機嫌だった。阿熊を誘った文も勇気を出してよかったと安堵していた。コミュニケーションに難はあるが、主題は合唱だ。歌がうまければいい。


 しかし、二回目の練習を終えた、次の日。文は意外な光景を目にした。


「……?」


 七時で店を閉め、後片付けをして表のシャッターを閉めた。裏口から出て、家へ戻ろうとした時、公道の方に誰かが立っているのに気がついた。

 客だろうかと思い、もう閉店したと伝える為、行き先を変える。路地を歩いて行くと、背中を向けているのが阿熊だと分かった。


 何してるんだろう。不思議に思って、声をかけようとすると。


「あ…」


 阿熊が一人でないのに気づく。阿熊の向かいに立っていたのは、すみれ合唱サークルのメンバーである黒田で、文は「黒田さん?」と先に黒田の名前を口にした。


 阿熊の住まいは店の二階だし、そこにいてもおかしくないが、黒田は違う。駅前のマンションに住んでいると聞いた覚えがある。

 その黒田が何故、ここに?


「……こんばんは」


 文を見た黒田は、一瞬、しまったというような表情を浮かべた。けれど、それをすぐに消して、取り繕った笑みで挨拶する。


「こんばんは。どうしたんですか?」

「いえ。偶々通りかかったので…確か、ここは真辺さんのお店だなと思って見ていたら、阿熊さんにお会いしたんです」

「そうだったんですか。そうなんです。お店は七時までで、さっき閉めたところなんですけど」

「今度は営業している時に来させて貰います」

「ありがとうございます」


 礼を言う文に一礼し、黒田は去って行く。その背中が遠ざかると、文は隣に突っ立っている阿熊に、何処かへ行くところだったのかと尋ねた。


「珍しいですね。阿熊さんがお出かけなんて」

「そうでもありません」


 否定する阿熊に、文は「えっ」と驚く。そうなのか。文や櫂の目には、阿熊はずっと部屋に引きこもっているように見えていたが、思えば、店を閉めた後は家に戻ってしまうので、その動向は分からない。

 自分たちと違う生活サイクルだったから、引きこもっているように見えていたのか。


「どこへ行くんですか?」


 何気なく行き先を聞いた文を、阿熊は無言で見る。


「彼はどういう人物ですか?」

「彼って…黒田さんですか?」


 阿熊から質問の答えは返って来ず、違う問いかけをされる。文が黒田のことかと確認すると、阿熊は頷いた。


「どういうって…黒田さんは歌がうまくて…学生時代に合唱部にいたから、合唱の経験者で…仕事は普通の会社員で…駅前のマンションに住んでるって聞いてますけど」


 知りうる限りの情報を並べた文に、阿熊は「他には?」と目顔で聞く。その目つきは冷たいもので、居心地の悪い気分を味わいながら、文はそれ以上は知らないと続けた。


 すると。


「チッ…」


「……?」


 小さな音が聞こえ、文は怪訝な表情で阿熊を見る。


 今のって…舌打ち?


 いや、聞き間違いかな。ただ、つばを飲んだだけとか…かな。


 舌打ちされるなんて、滅多にない事態だけに、文は混乱する。阿熊が無表情で、普段と変わらないのも影響していた。


 怒っているとか苛立っているとか、そういう雰囲気があるのならまだしも、いつもと変わらない感じで舌打ちするとか考えられない。


 自分の聞き間違いだと思い直す文に、阿熊は「失礼します」と挨拶し、二階の自室へ続く階段へ向かった。


「……」


 出かけるところではなく、戻って来たところだったのか。阿熊はいつものように五時半に弁当を買いに来たから、その後、出かけていたのだろう。


 どこへ?謎だなあ…と首を傾げ、文は路地を通って自宅へ戻った。



 翌日、本番前のリハーサルを兼ねた練習が行われる予定だったので、文は店を閉めてから阿熊と共にふれあい館へ出かけた。練習会場である会議室に入ってすぐのところに黒田が立っていたので、文は声をかけた。


「こんばんは」

「……」


 偶然通りかかったという黒田に、昨夜、会った。その話をしようと思ったのに、その顔に驚きが見て取れて、文は戸惑う。


 黒田は目を見開いて、文ではなく、その斜め後ろに立つ阿熊を凝視していた。信じられない…という表情に見えるが、その理由が分からない。


「黒田さん?」


 どうしたのかと聞く為に文が声をかけると、黒田は「いえ」と首を振り、逃げるようにして会議室を出て行ってしまう。


「どうしたんですかね?」


 阿熊の意見を求めるつもりで話しかけたのに、答えは返って来ない。無表情の阿熊に重ねて聞くことは諦めて、先に来ていた久恵のそばへ向かった。明日は本番だ。服装は自由なので、何を着るかという話をしていると練習を開始するというすみれ先生の声が響いた。


 その頃には黒田戻って来ていたので、トイレだったのかなと、文は思った。急に便意を催して、それで様子がおかしく見えたのかもしれない。

 黒田の異変をそう理解し、文は大したことじゃないと捉えてすぐに忘れてしまった。


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