二階の悪魔さん ー地獄への帰り方、探してます。ー
谷崎泉
第1話-1 苦悩の侯爵
一九〇〇年代後半。世紀末を控えた人間界では様々な終末論がまことしやかに語られていた。イエス・キリストが再臨し、世界は滅亡する。小惑星が衝突し、地球が滅びる。秘密結社が世界を支配する。コンピュータシステムがダウンし、文明が崩壊する…。
様々な説が人間に恐怖を与える中で、地獄にもまた、その影響が及んでいた。
地獄とは暗黒の世界だ。どこまでも漆黒の闇が続き、一筋の光も差さない。明かりのように見えるのは、永遠に燃えさかる業火であり、亡者を取り込んで蠢く黒炎だ。
遠くから、近くから、亡者があげる苦悶の叫びが絶え間なく聞こえてくる。呪われし闇鳥が靄の中を舞い、獰猛な鳴き声をあげる。濃密な絶望が満ちる終焉の地。
その地獄で。
暗闇の中に続く細く長い道を、一台の
死馬が引く二輪の馬車は道の凸凹によって大きく揺れる。馬車に乗る主からは気遣いは無用であり、とにかく急げと命じられている御者は、手綱をきつく握って死馬を操る。
死馬車が向かう先は
遠く離れた場所からもその壮大さが分かる館の真上には、黒い雷雲が立ちこめ、赤い稲妻が走り、ゴロゴロという腹の底の響く重低音が轟いている。
主人であるベリアルの機嫌に影響されているのだろう。死馬車の窓越しに見える雷光を、アヴナスは険相で眺めていた。
地獄では序列が重視される。力が全て。強者が上に立つのは、悪としてのファンダメンタルでもある。
地獄を統べるのはサタンで、その下には何名かの大悪魔…ベルゼブブやアスタロト、マモンといった有名な悪魔…がいるが、実際に地獄を管理しているのは十柱の王と、その部下たちだ。
侯爵であるアヴナスはベリアルの従者として、所領や亡者たちの管理監督を担っている。
十柱の王たちは様々な特性を持つが、欺瞞の王であるベリアルは中でも一番性格が悪い。よって、その下で働くアヴナスは気苦労が絶えなかった。
突然の呼び出しに応じ、こうして馳せ参じている今も、憂鬱は増している。
ベリアルが自分を呼んだ理由はおおよそ分かっている。分かっているだけに逃げちゃいたいなと思うけれど、逃げたらもっと酷い目に遭う。
今日もねちねち絡まれるかと思うだけで、胃がきゅっと痛くなる。
「アヴナス様。着きましたよ」
死馬車が停まると、アヴナスの従者であるロエが緊張した面持ちで声をかけた。アヴナスは無言で頷き、ロエが開けたドアから死馬車を降りる。
「……」
見上げた先にある館の扉は観音開きで、アヴナスの背の倍以上の高さがある。足を止めたアヴナスは沈痛な面持ちでそれを見つめ、心の中で溜め息を零した。
地獄には様々な容貌をした悪魔がいるが、アヴナスは人間と変わらない姿をしている。
背は高く、痩せていて、背中に定規でも入っているかのように姿勢が正しい。鼻筋の通った顔立ちは彫りが深く端正だが、やや長く、白目の多さが目立つ。薄い唇はいつも不幸に見舞われているかのように、ぎゅっと結ばれている。
着ているものは主であるベリアルの趣味で、一八世紀の人間界で流行したという洋服だ。シャツの上にウエストコートを着て、その上に後方の裾が長くなっているコートを羽織っている。似合っているとは言い難いが、彼が連れている従者のロエよりはマシだ。
下級悪魔であるロエは、ベリアルに謁見する為にアヴナスと同じような格好をしているが、背が低く、猫背で、平坦な顔立ちのロエには非常に似合っていなかった。
アヴナスが意を決して歩き始めると、目の前の扉がひとりでに開いた。
「…」
ベリアルが暮らす館に使用人は一人もいない。ベリアルの仕打ち…いや、要求に応えられる悪魔はおらず、些細なミスでも厳しく罰するので、誰も近付こうとしなくなった。今は、ベリアルがその強力な魔力の一端で全てを管理している。
館に入るとすぐのところに吹き抜けのホールがあり、正面には左右に分かれる両階段が連なっている。その中央にかかっているのはベリアルを描いた肖像画だ。
悪魔とは思えない美しさは、悪魔だからこそでもある。アヴナスはそれを一瞥してから「ベリアル様」と宙に呼びかけた。
「アヴナスでございます。急ぎの用とお聞きし、馳せ参じました」
ベリアルの姿はどこにも見えないが、彼からはアヴナスの姿が見えている。すぐに、どこからともなくベリアルの声が答えた。
「遅かったね」
「申し訳ございません」
必死で来たとか、これが限界だとか、言い訳してはならない。不用意な一言が命取りとなる。
緊張した面持ちでアヴナスは深々と頭を下げる。ベリアルがそばにいなくても、館の中にいる間は一挙手一投足を見張られていると考えなければならない。
アヴナスは丁寧に頭を下げた後、ベリアルがいるであろう居室へ向かった。ホールから左手に進み、いくつかの部屋を抜けて長い廊下に出る。
ロエを連れたアヴナスが進む速度に合わせて、壁や天井の明かりが灯っては消える。扉も開いては閉じる。完全に監視されている。
走ればバタバタするなと叱られるし、歩けば遅いと罵られるだろう。アヴナスはその中間の速度を保ち、館の奥にある居室に辿り着いた。
部屋に入ってすぐ、ベリアルの姿を窓辺に見つけ、アヴナスは床に跪く。
「お待たせ致しました。何かご用でしょうか?」
「なんだと思う?」
「……」
いつもの謎かけが始まり、アヴナスのまたしても胃の痛みを覚えた。すぐに来いと呼びつけ、遅かったねと言ったくせに、これだ。
うんざりしながらも、不快感を表に出すのは御法度だと分かっている。ベリアルは相手が苦しむ姿を見るのが大好きだ。悪魔は誰しも他者の苦しみや辛さに喜びを覚えるものだが、ベリアルは特にその傾向が強い。
表情筋をぴくりとも動かさず、アヴナスは決まり文句を口にした。
「私めのような者には想像もつきませんが…」
「お前は悪魔だけに嘘をつくのが上手だね」
いやいや。ベリアル様ほどでは。
そんな本音は胸の奥底に仕舞い、アヴナスは無言で頭を垂れた。
とんでもないと否定すれば、悪魔らしくないと説教される。嘘をついたと認めれば、主人を欺くのかと責められる。どっちに転んでも割を食うのは自分だ。
アヴナスが無言を貫いていると、窓の外を眺めていたベリアルが振り返った。その姿は光り輝くように美しく、悪魔の醜さとは無縁だ。
白い肌、蜂蜜色の長い髪、透明な水色の瞳。薄い唇の端を上げ、ベリアルはアヴナスに微笑みかける。
「本当に分からないのかい?」
「……」
「では、お前が連れている噂好きのそれに聞いてみようか」
ベリアルに「それ」と指されたロエが怯えているのが、背後にいても感じられた。ベリアルが恐ろしくて、その前ではひたすらひれ伏し、土下座しているロエだ。聞かれる前に口を割る可能性は高い。
アヴナスにその情報をもたらしたのはロエだ。
ベリアルが指摘した通り、ロエは噂好きで嘘つきな悪魔である。そのおしゃべりで相手を惑わす。ただ、下級悪魔であっても、真に愚かではないので、相手を見ることは出来る。
ベリアルに嘘を吐くことは絶対にしない。
ということは、自分がとぼけていることがバレて、お前は私に嘘を吐いたのかやはりお前は信用ならない主人に嘘を吐く裏切り者めどういうつもりだ…と地獄のループが始まる。
地獄で地獄のループなんて、本気で終わりのないループだ。
アヴナスは必死の形相で「もしかしてぇ!」と声を上げた。
「バラム様の件だったりしますかぁ!?」
逃げ場はない。この際、開き直るしかないと腹をくくり、アヴナスはバラムの名を出した。
ベリアルは長い睫を伏せて、疑わしげな表情でアヴナスを睨む。
「知っててとぼけようとしたのかな?」
「滅相もございません! 私めは愚かなものですから、思い出せずにいたのです」
「それほどに愚かな者が侯爵を務めているというのはどうだろうね」
「力不足で申し訳なく思っております…」
「お前がそんな風だから、あんな牛男に舐められるんだと思わないか?」
周囲に空気が一気に冷え込むのを感じ、アヴナスは絶望的な気分で項垂れた。
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