第26話 翠蘭と笙鈴2
窓から見える空はすでに明るく、夜はとっくに明けている。
(残念。なにも起きなかったわ)
仕掛けていた結界がいくつか破られたり、瘴気が濃くなったりと、悪鬼が仕掛けてきそうな気配は確かにあった。
そのため、翠蘭は笙鈴の傍に座して悪鬼が現れるのを嬉々として待ち構えていたのだが、結局は何事もなく平穏に夜が過ぎていっただけだった。
寝台に横たわっている笙鈴の無防備な寝顔に、翠蘭がこっそりと微笑んだ時、そろそろとふたつの足音が近づいてきた。
戸口に姿を現したのは
もちろん翠蘭も声をひそめて挨拶を返した。
「おはよう。そちらも何事もなく?」
「はい。攻撃は受けませんでした。悪鬼の気配が間近まで迫ってきた瞬間はありましたが、皆さん毅然としていらっしゃって……見習わなければと身が引き締まる思いです」
屋敷全体に結界を張ったあと、翠蘭は笙鈴、明明と紅玉は女中たちと共に過ごすことにしたのだ。
明明が苦々しさいっぱいに報告すると同時に、衣擦れの音がして、翠蘭たちの視線が寝台へと向けられる。
「おはよう」
ゆっくりと体を起こした笙鈴がかすれ声でひと声かけてくる。紅玉は体を小さくさせて後ろへと下がり、明明は慌てて謝罪する。
「笙鈴様! 私の声で起こしてしまいましたよね。配慮が足りず申し訳ございません!」
「平気よ。気にしないで。……むしろ、こちらが皆さんにお礼を言わねば。私どものことを守ってくださっていたのですから。ありがとう」
そこで、笙鈴が気遣うように翠蘭に目を向け、申し訳なさそうに話を続ける。
「おかげさまで私は久しぶりにゆっくり眠れました。でも、翠蘭さんはずっと起きていらっしゃいましたよね。体調はいかがですか? しんどいなら、どうぞ横になってください」
「いいえ。慣れておりますので、心配は無用です」
「……そ、そうなのですか?」
確かに、翠蘭に疲れた様子は一切ない。しかし、「
それに苦笑いを浮かべつつも、問題がないと示すように明明が頷き返してきたため、笙鈴は若干の混乱と共に翠蘭の言葉を受け入れた。
そんな二人のやり取りを気に留めることなく、翠蘭が不満げに口を開いた。
「ある意味、お役に立てたかもしれませんが、本来の目的はなにも果たせておりません。すぐそばまで来ていたのに避けられてしまったかのようで、肩透かしを食らった気分です」
「翠蘭様のおっしゃる通りかもしれません。こちらに来る前に、紅玉と一緒に屋敷の結界を確認してきましたが、すべて破られておりました」
笙鈴が大きく目を見開き、怯えの色を濃くしたため、明明は慌てて補足する。
「結界は簡単にやぶれるようにしておいたので、そこまでは想定内でございます……そのまま進めば翠蘭様が待ち構えている笙鈴様の寝室へたどり着いたはずなのですが、残された瘴気を見る限り、悪鬼は途中で止まり、そのまま引き返していったようです」
「ということは、私、本当に避けられていたみたいね。だったら、追いかけて行けばよかった」
翠蘭が最後にぽつりと付け加えたひと言に、笙鈴は動揺で顔を強張らせながらも、素直な疑問を明明にぶつける。
「引き返すなんて、そんなことがあり得るの?」
「あります。翠蘭様には勝てないと判断し、退散したのでしょう」
返ってきた言葉に、笙鈴が「え?」と呟く。
唖然とした面持ちでじっと見つめられても一切気にすることなく、翠蘭は淡々と自分の考えを述べた。
「前回の大蜘蛛の件もあったから、相手側が慎重になっているのかしら。それとも、前回と違って
「……や、やはり呪術師が絡んでいるのですか?」
「ええ、間違いなく」
笙鈴の問いかけに翠蘭はきっぱりと断言したのち、今度は翠蘭が笙鈴に疑問をぶつける。
「そういえば、以前は
今、笙鈴の周りにいる女官は武芸に秀でている者たちばかりで、唯一、占術師といえるだろう人物は、昨日翠蘭から目をそらしたあの女性だけだったのだ。
「体調不良で下がってしまったわ。それからお父様が何名か新たに寄越してきたけれどみんな悪鬼に恐れをなしてすぐに辞めてしまって、今は先日来たばかりの彼女だけです。あの子は占術の道に入ってから日が浅いらしいのですが、もう占術師のあてがないらしく、いないよりはマシだろうとお父様が」
笙鈴の説明を聞いて、翠蘭は不思議そうに瞬きを繰り返す。
「そんなわけないでしょう。宮廷占術師から派遣することもできるはずです」
「宮廷占術師は
「お気持ちはわかりますが、現状を思えばくだらない話ですね。早急に宮廷占術師を寄越すように私が話をつけておきます。この状況下、彼女ひとりではあなたを守れません。逆によくここまで持ち堪えたと感心します」
翠蘭はほんの少し口調を荒げながら一気に言い切る。そして、ひと呼吸を挟んだあと、笙鈴へ真摯に訴えかけた。
「笙鈴さんが皇后になった後も、間違いなくこういった問題と直面するでしょう。李家が育てた占術師には優秀な者が多いですから、今からそばにつけておいて損はないはずです」
「……あ、ありがとう。私のことを案じてのその言葉、とても嬉しいです。すべてお願いするわ。お父様には私から説明しておきます」
同じく皇后を目指す者としての翠蘭の発言に動揺をみせたものの、笙鈴は花が咲くようににこりと笑った。
「実はね、私、疑っていたの。あの子は間者なんじゃないかって……それに関して、翠蘭さんはどう思う?」
「その可能性も、もちろん考えました。でも、一晩一緒にいて、霊力が低いのは疑いようのない事実だと確信しましたし、間者ではないでしょう。正直言って、あの程度では駒にすらなりませんから」
翠蘭の歯に衣着せぬ発言に、笙鈴は「それほどまで?」と苦笑いで明明と紅玉に目を向ける。
ふたりは答え難そうな顔をし、揃って視線を伏せた。
「有力な占術師たちが次々と退散し、残ったのは素人のみ。さぞかし心細かったでしょうね」
「本音を言えば、怖かった。でも、私は
翠蘭から憐みの目で見られ、笙鈴はため息交じりで返したあと、改めるようにして表情を引き締めた。
「李翠蘭、お願いがあります。……あなた方に敵意を向けていた私がこんなことを頼むのかと思われるかもしれませんが」
「なにかしら。聞かせてちょうだい」
興味を惹かれた翠蘭が前のめりになると、笙鈴は緊張気味に口を開いた。
「
元皇后候補で、後宮を辞した者の名前が静かな室内に重々しく響いた。
「今でも彼女の前に悪鬼が現れていると聞いています。元の明るく元気な彼女に戻って欲しいのです。私にできることならなんでもします。李翠蘭、お願いです」
「今、何でもするとおっしゃいましたね……わかりました、朱家の方も、なんとかいたしましょう」
翠蘭は笙鈴としっかりと目を合わせたまま、企むような笑みを浮かべた。
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