あなたが世界を愛するなら

財前創平

あなたが世界を愛するなら

「AI、東大理三合格レベル」


職員室に響くコピー機の音のなか、ニュースの見出しが由香の目に飛び込んできた。


神谷由香。高校で化学を教えて三年目。地方の国立大学を出た自分にとって、「東大理三」の文字は、どこか別の世界の話だった。


放課後、スマホで目にした別の記事が、胸にひっかかった。


「AI講師、人間より高い学習効果」


記事にはこうある。AIは生徒一人ひとりに最適な解説を与え、理解度も記憶の定着率も人間を上回る。疲れることも、怒ることもなく、24時間働き続ける。


「……私なんか、もう必要ないのかもしれない」


スマホを伏せ、深く息をついた。


「先生、この反応式が分かりません」


放課後、山本が質問にやってきた。真面目な生徒だが、抽象的な概念の理解には時間がかかる。


「どこが分からないの?」


隣に座り、紙に分子の動きを描いて説明する。山本はじっと見つめていたが、やがて小さく笑った。


「……あ、分かりました。分子って、生きてるみたいですね」


由香はふと考える。AIでも、こんなふうに教えられるのだろうか。彼のこの笑顔は、AIとの対話でも生まれるのだろうか。


期末評価を提出した翌日、校長に呼ばれた。


校長室に入ると、ほのかにコーヒーの香りが漂っていた。


「最近、どうですか」


「……正直、不安です。AIの進歩を見ていると、教師の存在意義が揺らいでいる気がして」


校長は一度うなずき、口を開いた。


「私も若い頃、同じことを考えました。当時は、コンピュータが教育を変えると言われていましてね」


まっすぐに由香を見て、穏やかな声で続けた。


「教育とは、新しく生まれてきた者たちを、この世界に迎え入れ、それを愛せるようにすることです」


「世界を……愛せるように?」


「ある人の受け売りですけどね」校長は少し照れくさそうに笑った。


「知識を伝えるだけなら、AIにもできます。」


「でも、世界との関わり方―言い換えれば、世界を愛すること。それを教えられるのは、世界を本当に愛している人間だけなんじゃないでしょうか」


「……なんてね」


校長は、赤らんだ顔を誤魔化すように、コーヒーを口にした。


由香の胸に、その言葉が静かに残った。


翌日の授業。テーマは化学反応における「触媒」。


「この反応は、通常だと進みにくい。でも、触媒があると——」


黒板に別経路を示す矢印を描きながら、言葉を続けた。


「触媒は、反応の前後で自分は変わりません。でも、その存在が、反応の可能性を大きく変えるんです」


口にしながら、心の奥で何かがつながる感覚があった。


数週間後、廊下で山本に呼び止められた。


「先生、僕……大学で化学を学びたいと思ってます」


由香は目を見開き、そして静かに微笑んだ。


「でも、AIがここまで進んだら、化学を学ぶ意味って……あるんでしょうか」


由香はゆっくりと答えた。


「化学は単語や反応式を覚えることだけじゃない」由香は窓の外に目をやった。「世界の見方を変えることなの」


山本の目が、少しだけ大きく見開かれた。


夕暮れ。校舎の窓から差し込む光が、柔らかく教室を照らしている。


由香は気づいたのだった。教師とは、生徒と世界をつなぐ触媒のような存在なのだと。


「世界を愛することを教えられるのは、世界を愛している人間だけ、か」


その言葉が、今は胸に深く響いていた。

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