第三話 風を裂く足音
山の奥に、小さな村がある。
春の風が山肌を撫でる頃、そこに一人の女が現れた。
腰に刀を差し、黒地に桜の柄を散らした羽織をまとったその女の名は――あやか。
村の空気は、張り詰めていた。
風は吹くのに、鳥の声がしない。
家々の戸は閉ざされ、子どもたちの気配もない。
あやかを迎えたのは、若い使者の男だった。
昨夜、村人の一人が姿を消したという。
「履き物は揃えてあり、囲炉裏にはまだ火が残っていました。ですが、そのまま――」
あやかは黙って頷くと、家へ向かった。
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その家は、どこか“空白”を感じさせた。
囲炉裏には、ぬるくなった湯。
食器が整い、寝具はたたまれている。
だが、畳の上に、焦げた一枚の葉だけが落ちていた。
拾い上げ、指先で砕く。
「……香がある。これはただの山の葉ではないな」
あやかは家の裏へまわる。土は柔らかく湿っている。
だが、足跡がひとつもない。
「すくい取られたな、この空間ごと」
彼女の視線が、森の奥へ向く。
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森の中、枯葉が不自然に一列を成していた。
風が吹くたびに、焦げた葉が先へ先へと舞い、道を示すように落ちていく。
その先にあったのは、崩れかけた石組み。
かつて井戸だった場所が、地面ごと落ち込んでいた。
あやかは腰を落とし、耳を澄ます。
「……たすけて」
小さく、掠れた声が聞こえた。
叫びではない。命をつなぐような、わずかな音。
井戸の縁に絡まった蔦をかき分けると、下に倒木と共に、人影があった。
生きている。
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村人たちが駆けつける頃には、男は地上に引き上げられていた。
衰弱していたが、意識はあった。
「……夕方、外に出たら、風に押されたように足を踏み外して……」
あやかは頷いた。
「倒木と井戸の崩れ。偶然が重なり、誰の耳にも届かぬ場所へ落ちた――というだけのことだ」
「それだけのこと」が、どれだけ恐ろしいか。
村人たちは、ただ静かにうなずいた。
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村を離れる前に、村の長があやかに小さな木箱を差し出した。
「わずかばかりですが、礼の品を……」
あやかは腰を下ろし、蓋を開ける。
中には、香木、古い銅貨、そして干し柿が二つ。
「……干し柿、またか」
一つを取り出し、口に入れる。
素朴な甘さが広がった。
立ち上がると、草むらの奥に、白い猫の影が見えた。
風が吹く。
桜柄の羽織が、ふわりと舞った。
あやかは何も言わず、ただ歩き出した。
その足音が、村の風を静かに裂いていった。
⸻
第三話・了
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