第14話 幸せを教えてくれた人

 コノハは震える拳をぎゅっと握りしめた。目は先ほどよりも真っ直ぐに烏丸を見据え、声の震えがおさまっていく。


「私は、ミコト様と幸せになるって、決めたの」


 他人に大切にされるという幸せを教えてくれたのは、あの人。

「あなたはもっとたくさんの『幸せ』を経験するべきだ」と言ってくれたのも、あの人。

 彼女を愛してくれたのも、あの人だ。


「恩返しとかじゃない。私は私の意志で、ミコト様を愛し続けると決めた。それを誰にも邪魔なんかさせない」


「よく言ったぞ、コノハ。ミコトのやつがこちらに来れないみたいだから、俺達でアイツをやっつけてやる!」


「よくも、そんな大きな口を叩けましたわね。塵芥を漁る畜生のくせに……!」


 鴉に襲われて、若干髪型が崩れたサクヤが、コノハと烏丸をにらみつける。

 崩れた髪が一本、彼女の顔にかかっていて、以前に見た般若のような顔とまた出会った。


「あなたたち、生意気なのよ……もう一度猫に切り裂かれたいのかしら」


「猫……? まさか、サクヤ、あなたが烏丸を!?」


 コノハはハッとする。

 ミコトが怪我をした烏丸を見たときの「猫にでも襲われたのでしょうか」という言葉を思い出したからだ。

 たしか、高天原家には、猫を使役する妖術師がいたはず……。


「猫八から、お姉様の部屋の前に素敵な庭があるとうかがいましたの。鴉の死骸と赤い血で綺麗に飾って差し上げようと思っていたのですけれど、まさか、あの鴉が生きていたなんて。本当に生き汚い畜生ですわね。お姉様そっくりでお似合いでしてよ」


「私への嫌がらせのためだけに、烏丸を巻き込んだっていうの……?」


 コノハはわなわなと拳を握りしめた。

 自分のせいで、無関係な烏丸まで傷つけられたなんて、到底許せるものではない。


「あのときの怨み、晴らさでおくべきか!」


 烏丸は怒りの声を上げると、バサバサとその場を飛び去ってしまった。

 サクヤはキョトンとしたあと、高笑いを始める。


「なによ、逃げただけじゃない。お姉様ったら、鴉にまで見捨てられて可哀想に」


「烏丸は逃げ出すような臆病者じゃないわ」


 なにより、これまで丹念に世話をしてきたコノハが、それを一番よく知っている。


「でも、逃げたのは事実じゃない。さあ、お姉様。あなたの口から直接ミコト様を拒絶なさって? あなたを諦めれば、ミコト様は自由の身になれるのよ――」


 サクヤがコノハに再び迫ったときだった。

 カア、カア、と鴉の鳴き声が遠くから聞こえてくる。

 その鳴き声の渦はだんだんコノハたちに近づいてきていて――あっという間に鴉の大群が、葦原神社に押し寄せてきていた。


「…………は? 嘘でしょ……」


 サクヤの呟きも、鴉の鳴き声にかき消され。

 その大群が、一斉に彼女に襲いかかった。


「きゃああああっ! ちょっと何よ、やめなさいよ!」


 サクヤの絹を裂くような悲鳴。

 使用人たちはなんとか己の上着や雇い主の日傘で彼女をくちばしでつつく鴉の群れを追い払おうとする。


「帰りなさい、サクヤ。これ以上、私たちに関わらないで」


「お姉様のくせに、偉そうに! 覚えてなさいよ、ミコト様はあたくしが必ず手に入れてみせるんだから!」


 サクヤは「お父様に言いつけてやる!」と泣きながら鳥居をくぐり、我先にと逃げていった。それを「お、お嬢様! 置いていかないでくださいまし!」と使用人が追いかけていく。

 その一団が帰ったあとは、葦原神社はもとの通り、静寂を取り戻した。


「フン、あとで塩まいておこう」


「奥様、お怪我は?」


 コノハの心配をする従者たちに、「大丈夫よ、ありがとう」と返し、彼女はふうとため息をつく。

 やっと使用人の群れから解放されたミコトは、ゆっくりと妻に歩み寄った。


「お力添えできず、すみません」


「本当にそのとおりだ、妻を守れず何をやってるのだ、旦那」


 答えたのは烏丸である。ミコトは「返す言葉もございません」と頭をかく。


「それにしても、奥様、かっこよかったなあ!」


「あの怖い姉ちゃんに『帰りなさい』って大見得を切ってたもんなあ!」


 子どもの眷属たちに褒めそやされ、コノハは恥ずかしそうに頬を染めた。


「ところで、ミコト様」


「はい、なんでしょう」


「しばらく、私に触るの禁止です」


 頬を膨らませたコノハに、ミコトは「えっ」と固まる。


「サクヤに腕を絡められて、抱きつかれて、すり寄られてましたよね?」


「いや、あれは突き飛ばしたでしょう」


「それでも、です。私、当分の間、ミコト様には触りたくありませんから」


「どうして。普通、たくさん触って上書きするものではないのですか? コノハさん、お顔をこちらに向けてください。コノハさん?」


 すっかり拗ねてしまった妻が機嫌を直すまで、夫はひたすらに謝り倒したという。

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