第9話 三ヶ月遅れの初夜

 五月の庭は、新緑が陽光を照り返し、生命の息吹を感じさせる気持ちの良い初夏だった。

 コノハが葦原神社に嫁入りして、実に三ヶ月がたっている。

 彼女の目下の悩みは、とても他人には話せないものだった。

 ――未だに、夫と初夜を過ごしていない。

 だが、これは眷属を含む誰にも相談できないし、令嬢として旦那様に自ら求めるのも、はしたないと思っている。

 ゆえに、独りで悶々もんもんとしていた。


 ――ミコト様は、私を求めて下さらない。

 それはそうだ。こんな焼けただれた顔の女と一晩ともに過ごしたいという男はそうそういないだろう。

 自分には魅力がないのだ……。

 そう結論づけて落ち込んでいる。


 彼女の心を魔眼で読めるはずなのに、今回に限っては彼から声をかけることもない。

 それが余計に卑屈令嬢を悩ませていた。


「――さん。コノハさん」


「はいっ!?」


 ぼうっとしていたら突然夫の声が耳に飛び込んできて、ビクッと肩が跳ねる。

 どうやら聞こえていない様子の嫁の耳に顔を寄せて、至近距離から話しかけてきたらしい。


「大丈夫ですか?」


「はい! 大丈夫ですごめんなさい!」


 コノハは必死になんでもないアピールをした。

 まさか、こんな真っ昼間から初夜について考えていたなど、言えるものか。

 一方の神様といえば、「平気そうには見えませんけどねえ」と言いながら、縁側の定位置に座り直す。

 葦原夫婦の日常は、たいてい縁側に座り、お茶を飲みながら会話を楽しむものであった。

 とはいえ、コノハはあまり喋らず、ミコトの話の聞き役に徹していることが多い。

 妻というものは夫を立てるものである、というのが桜国においての夫婦のあり方である。

 黙ってうなずき、男の後ろを三歩下がってついて歩く。妻に限らず、父と娘の関係においても、女という生き物の地位は低い。

 その点、妹のサクヤの演技は完璧である。常に男をもてはやすのを忘れず、自分は愛嬌を振りまいて男に愛されるすべを心得ていた。

 この桜国においては、そんなお芝居ができる女のほうが男からの人気は高い。

 それに引き換え、姉の方は小さい頃から活発で、住み込みで製薬について勉強していた中國トウマから冒険小説を借りて読むのが好きだった。実際に外に飛び出して男子の中にまじり、野山を駆けることも少なくなかった。桜国ではそういう女子は少数派だったし、また女として「はしたない」「わきまえていない」という評価である。そのため、両親を含めた大人たちに苦い顔で咎められることも多かった。


 そういったことをつらつらと考えていると、この国は息をするのが苦しい、と彼女は感じる。

 だが、桜国に生まれた以上、これは定めだ。

 自分にできることは、夫によく仕えて、子どもを生み育て、親に孫の顔を見せられるように――。

 そこで、はたと思い当たった。

 神様と人間の間に、子は産めるのだろうか?

 わからない。上位存在について、コノハは詳しくない。本で読んだ記憶では、ギリシア神話の最高神が何人もの女性と子をもうけたのではなかったか、というおぼろげなことしか覚えていなかった。

 ――これは、旦那様にお尋ねしたほうがよいのだろうか?

 しかし、令嬢としてそれは……はしたないのでは……。


 長考の末に、コノハは、ある決断をした。


「ミコト様。私の心を、読んでくださいませんか」


 彼の魔眼で、自分の今考えていることを視てもらう。

 眷属や周囲に盗み聞かれることなく、超常の者にしか知るすべのない、機密性の高い情報伝達の手段と言えるだろう。

 夫は、彼女をじっと見つめながら、あごに手を当てて「ふぅむ」と何かを考え込んでいた。狐面からは、何の表情も読み取れない。

 やがて、ミコトは再び、妻の耳に唇を寄せる。


「今夜、お部屋にうかがいます」


 コノハの心臓が、ドクンと跳ね上がった。

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