エピローグ

 大学の研究棟にある、小さな実験室。

 成瀬は今日も、静かに手を動かしていた。


 人工神経の反応を模擬するセンサーが、わずかに光を返す。3Dプリンタのノズルがミリ単位で動き、義肢の骨格が少しずつ形になっていく。


「……微弱な信号、一瞬だけ乱れた。外部圧じゃないね」

 

隣の同僚がつぶやくと、成瀬は目を細めて答えた。


「心理的緊張。観察されてる意識が、先に出たんだと思う」


 右手に、もう手袋はない。


 ――成瀬遥人。

 かつて“痛みに怯えていた”少年は、今、“誰かの痛みにふれたい”と願う研究者になった。


 直接ふれることは少ない。

 でも、“ふれる技術”を通して、誰かの苦しみを少しでもやわらげられるのなら――

 それが、彼がようやく見つけた、自分の立ち位置だった。


 作業がひと段落したころ、スマホが小さく震えた。


【今日は遅くなる?/図書館に本返してから駅に寄るね】

【寒いからマフラーしてきてね】


 見慣れた、うさぎの絵文字つきのメッセージ。

 名前もないのに、ぬくもりだけはちゃんと届いてくる。


 画面を見つめたまま、彼の口元がふっと緩んだ。

 そしてゆっくりと指を動かす。


【了解。コーヒー、買って待ってる】


 ◇


 駅前の並木道には、小さなイルミネーションが灯っていた。

 冬と春のあいだ。冷たい空気が、マフラーの端をゆらす。


 紙袋を片手にベンチにもたれた成瀬の前に、見慣れた歩幅が近づいてくる。


 マフラーに顔の半分をうずめたまま、葵が小さく手を振った。その頬は、寒さと少しの緊張でほんのり赤い。


「……待たせた?」


「いや、ちょうど。ほら、あったかいの」


 差し出した紙コップを受け取った葵は、両手で包むように持ち、ホッと吐息をこぼした。

 そして、そっと成瀬の右手を握る。


「右手、冷たいね」


「うん。でも、痛くはない」


「じゃあ――私の手で、もっとあったかくなればいいな」


 その言葉に、成瀬の目元がやわらかくほどける。

 口元は照れくさそうに結んだまま。でも、彼女の手を拒むことなく、静かに力を返した。


「今日ね、病院の子が“また聴きたい”って言ってくれて。手術の前にピアノ聴くと落ち着くんだって」


 湯気越しに葵は成瀬を見上げ、照れ隠しのように笑う。


「それだけで、なんか、一日分の幸せもらえた気がした」

「……葵らしいな」

「なにそれ、雑な感想」

「いや、ちゃんと伝えたいけど……言葉、足りないかも」


ふたりの笑いが重なって、通りすがりの風がマフラーをやさしく揺らした。


「……じゃあ、帰ろっか。成瀬先生」

「……先生って言うな」

「じゃあ、成瀬くん?」


その呼び方に、成瀬はふと目線を落とし、少し考えるようにしてから言った。


「遥人でいいって、言ったろ。……ずっと、そう呼ばれたいって思ってた」


 葵の目がぱちんと見開かれる。頬がまた少し赤くなって、唇がわずかに震えた。


「……じゃあ、遥人。今日もおつかれさま」


 もう一度、そっと右手を包む。そのぬくもりは、まっすぐ伝わってきた。

 

 その手は、もう怯えてなんかいない。


 ふたりの影が、街の灯りに溶けていく。

 まるで一本の線のように、未来の方へと、静かにのびていった。


 やわらかく、でも確かにふれあったふたりの手と、そのぬくもりだけが、行き先を知っていた。

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《ふれられない》きみと、手をつなぐ方法 秋初夏生 @natsuki3mr

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