第五章:変わっていく君と、変わらない想い

 春の空は、まだ少しだけ冬の匂いを残していた。

 新しいクラスの名簿が貼られた廊下の前で、私はそっと自分の名前をなぞる。


 ――佐藤葵。2年A組。


 指先を横に滑らせて、無意識に探していたもうひとつの名前。


 ――成瀬遥人。2年C組。


 胸の奥が、かすかに鳴った気がした。


(……そっか。別のクラスか)


 覚悟はしていた。進級すれば、クラス替えがある。それが“ふつう”だって、わかってた。


 なのに、思っていたよりずっと静かに、胸にしみた。


(しょうがないよね……)


 そう繰り返しても、気持ちはあまり整理されなかった。


 新しい教室に戻ると、椅子を引く音や「よろしくね」の声が飛び交っていた。

 見慣れない背中の中に埋もれて、私は少しだけ呼吸を浅くした。


 成瀬くんの姿は、すぐには見つからなかった。

 でも、下駄箱ですれ違ったとき、ほんの一瞬だけ目が合った。

 彼は何も言わなかったけれど、ごくごく小さく、確かに頷いた。


(……気づいてくれた)


 それだけのことが、なんだか少し、うれしかった。


 ◇


 放課後、昇降口を出ると、夕方の風が制服の裾を揺らした。


 約束していたわけじゃない。メッセージも送っていない。でも私は、迷いなく屋上への階段を上がっていた。


 鉄の扉をそっと開けると――そこに、いた。


 成瀬くんが、柵にもたれて立っていた。

 手袋をした手をポケットに入れたまま、グラウンドをぼんやりと眺めている。


 背中が見慣れているのに、少し遠く感じた。


 でも私が一歩近づくと、彼は無言で横にずれてくれた。

 まるで「ここ、空けてた」って言うように。


 私はその隣に立って、風に顔を向けた。


 沈黙は、不思議と心地よかった。

 ふたりだけの空気が、そこにはあった。


「……クラス、離れたね」


 ようやく出てきた声は、少しだけ震えていた。


「うん。そうだな」


 成瀬くんは空を見上げて、ほんのわずかに笑った気がした。


 ◇


 翌日。昼休み。

 私はパンをかじりながら、なんとなく中庭を見下ろしていた。

 その視線の先に、偶然、成瀬くんの姿があった。


 誰かと話していた。

 短い会話。たぶん、何かを貸し借りしていただけ。


 でもその中で、成瀬くんがほんの少し、表情を緩めていた。


(……今、笑った?)


 誰にも気づかれないような、小さな変化。でも、私はすぐに気づいた。


 だって、私は知っている。彼がまったく笑わなかった頃のことを。


 誰にも心を許さず、無言で空気を読んで過ごしていた、あの頃の成瀬くん。


 それに比べて、いま目の前にいる彼は――少し、やわらかい。


(……うれしい)

 

 そう思った。心から。


 彼は、変わろうとしている。

 この世界に、ちゃんと居場所をつくろうとしている。


 それに気づけた自分が、ちょっと誇らしかった。


 でも。


(わたしのいないところで、成瀬くんが変わっていく)


 たしかに望んでいたことなのに。

 願っていたはずなのに。


 それでも少しだけ、置いていかれるような気がした。


 ◇


 その日の放課後、私はひとりで音楽室にいた。


 特に理由はなかった。

 でも、鍵盤に触れたくなった。

 言葉よりも、音でしか表せないものが、たしかに胸の中にあった。


「……ポロン」


 低い音が、静かに空気に溶けて消えた。


 たった一音で、部屋の温度が変わった気がした。


「なんか……懐かしいね」


 声がして、振り返ると、扉のところに成瀬くんが立っていた。


 制服の肩からリュックが少しずり落ちていて、その姿は自然だった。

 まるで、ここに来るのが当たり前みたいに。


「なんでいるの?」


「たぶん……葵がここにいるのと同じ理由」


 その言葉に、思わず笑ってしまった。

 胸の中の何かが、ふっとほどけた気がした。


 成瀬くんは歩いてきて、私の隣に腰を下ろす。ベンチは狭くて、肩がほんの少しだけ触れた。


「最近さ、葵の顔……ときどき曇ってる」


「……そう?」


「うん。気づいてる」


 私は視線を落とした。


「……嫌なことがあったわけじゃないよ。ただ……誰かが変わっていくのって、嬉しいのに、ちょっと寂しいよね」


 成瀬くんは少し間を置いて、静かに言った。


「うん。俺も、そう思うときある」


「成瀬くんのこと、変わってほしいって思ってた。でも、変わらずにいてほしいって思ってたときもあった。どっちも本音」


 沈黙が落ちた。


 でも、それは苦しくなかった。伝えたいことは、たぶんもう伝わっていた。


「俺さ、葵の笑顔を見ると安心する。……でも、少しだけ寂しくなる」


「……なんで?」


「前はそんなこと思わなかった。誰かの気持ちに触れるのは、しんどかったから。

 でも、葵のことは気になる。曇ってると気になるし、笑ってると、ホッとする。だけど、どこかでちょっとだけ、さみしくなるんだ」


 私は、そっと息を吸って、彼の横顔を見つめた。


 今はもう、同じ教室の隣の席には座れない。でも、それでも――


「……それ、ちょっと嬉しい」


 そう言うと、成瀬くんは小さく目を伏せて、静かに頷いた。


 窓の隙間から、春の風が吹き込む。

 ピアノの上の楽譜が一枚、ふわりと舞い上がって、床に落ちた。


 でも私たちは、追いかけなかった。

 ただ、並んで座っていた。


 その沈黙が、なによりもあたたかかった。

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