第四章:名前のない気持ち

【4-1 クラスメイトの視線】


 夏休みが明けた教室には、微かなざわめきが漂っていた。まだ八月の陽射しが残る校庭から、汗だくの生徒たちが戻ってくる。

 私は自分の席に着いたまま、ふと視線を泳がせた。


(……なんか、見られてる?)


 そんな気配を、肌で感じる。

 ほどなくして、同じ中学出身の陽菜が私の机に寄ってきた。


「ねえ、葵」

「ん?」

「夏休み中さ、誰かと海行ったって話、本当?」


 心臓が、ひとつ跳ねた。

 でも、できるだけ平静を装って答える。


「え? ……ああ、うん。近くの海に。成瀬くんと」


 陽菜の目がまんまるになる。


「やっぱり! ほんとだったんだー。……ふたりきりで?」

「うん。まあ……海のそばに祖母の家があるから、それで」

「えー、それって、付き合ってるってこと?」

「……え?」


 “その言葉”を聞いた瞬間、どこかで何かが静かに軋んだ。近くの席の数人が、耳をそばだてているのがわかる。


「付き合ってるっていうか……その……」


 私は、ごまかすように笑った。

 でも、自分でもわかるほど、その笑みは曖昧だった。


「え、なにその反応〜! やっぱそうなんじゃん! あーもう、超気になる!」


 陽菜は楽しそうに言って、席へ戻っていった。

 だけど私は、指先がじんじんと痺れていた。


(……“付き合ってる”って、私たち、そうなのかな)


 答えは出なかった。

 胸の奥で、何かがかすかに軋んだだけだった。


 ◇


 放課後、委員会の作業中。

 掲示物を貼っていた教室の隅で、成瀬くんが、少しだけ不機嫌そうに眉をひそめていた。


「……今日、誰かが手袋のことを話してた」

「え?」

「“病気かな?”とか、“潔癖症かも”とか」


 私は、息をのんだ。

 何か、言わなきゃと思った。でもすぐには、言葉が見つからなかった。


「……そういうふうにしか、見えない人もいるんだね」


 成瀬くんは、小さく肩をすくめた。


「わかってる。でも……なんか、違うって言えないのも、しんどい」


「……そうだよね。ちゃんと“説明する”のもつらいよね。わかってもらうための努力って、疲れるし。……言葉で伝えられることって限界があるよね」


 成瀬くんは、それには答えなかったけど、目線をほんの少しだけ、私のほうに向けた。

 私は、その視線に、そっと言葉を添えた。


「私は、わかってるよ。全部じゃないかもしれないけど……あのとき、話してくれてよかったと思ってる」


 だから大丈夫、とは言えないけど。

 分かってくれる人もいるよって、ただそれだけでも伝えたかった。


 それが通じたかはわからない。

 けれど成瀬くんは、少しだけ目を伏せて、小さく息を吐いた。


「……ありがとな」


 その声は、かすれていたけれど、掲示物よりもまっすぐ、この教室の壁に残ったような気がした。


【4-2 ふたりの定義】


 文化祭の準備は、想像よりずっと慌ただしかった。

 クラスで喫茶店をやることになり、私はメニュー作成と会計係、成瀬くんは“コーヒー係”に決まった。

 ただそれだけなのに、クラスの一部はざわざわと色めき立っていた。


「え、また成瀬くんと一緒? ってことはさー」


 背後で聞こえた声に、私は何も聞こえなかったふりをした。

 放課後、メニュー作りに奮闘していると陽菜がそっと近づいてきた。


「ねえ、葵」

「ん?」

「成瀬くんのこと、“友達”って言ったらしいね。それ、本当にそう思ってる?」


 その声色は柔らかいのに、言葉はちくりと刺さった。


「……どうして?」

「最近さ、ふたりだけの世界すぎるって……みんな、そう言ってるよ」


 私は言葉に詰まった。

 陽菜は、責めるでも、からかうでもなく、まっすぐに私を見ていた。


「ごめんね、悪気はないの。ただ、葵さ、入学式のとき“青春したい”って言ってたじゃん。それ、今できてるのかなって」


 私は一拍置いて、静かに答えた。


「うん。たぶんね」


 陽菜は少し驚いたような顔をして、それから微笑んだ。


「そっか。……葵がそう思ってるならいいよ」


 ポスターを抱えた陽菜の背中が、教室のざわめきに溶けていった。


(“青春”って……)


 私は思った。


 たしかに叫んだ、あの朝。

 でもそのとき想像していた“青春”の景色に、成瀬くんの手袋も、静かな声も、なかった。


 それでも今、彼といることでしか感じられない季節の色、空気の硬さ、指先の温度を、私は誰よりも、大切に思っている。


 それが“正解”なのか、“恋”なのか、“友達以上”なのか――きっと、まだ誰にもわからない。


 でも、私は思った。

 そんなふうに思い悩む日々もまるごと、私の“青春”なのだと。


 ◇


 作業机の前で、成瀬くんがコーヒーメーカーの箱を開けていた。

 私は、そっと近づいて、小声で話しかける。


「……ねえ」

「ん」

「今日、聞かれたよ。“付き合ってるの?”って」


 彼の手が、ふと止まった。


「……なんて答えた?」

「わかんないって。でも、こうして一緒にいるのが好きだって、思ってるよ」


 成瀬くんは、少しうつむいて、静かに笑った。

 でも、それは照れ笑いでも、嬉しさでもない、どこか遠くを見るような微笑みだった。


「……ありがと」

「なんで? 隣にいるだけだよ」

「それが、一番助かる」


 その声は、驚くほど小さくて、でも、今日一日分のざわめきや不安を、静かに溶かしてしまうくらい、あたたかかった。

 

【4-3 言葉にできない気持ち】


 文化祭当日、教室はまるで別の世界だった。


 窓にはレースのカーテン。机には白いクロス。

 紙のランタンとフェイクの花が彩る空間は、いつもの教室とはまるで違って見えた。


 制服の上から着た白いエプロンと、小さなブローチ。

 文化祭限定の“ウェイトレス仕様”は、正直、ちょっと恥ずかしい。


 それでも――私の視線は、自然とカウンターに立つ彼に向かっていた。

 

 成瀬くん。今日だけの“バリスタ役”。

 黒のシャツにベージュのエプロン。そして、右手には変わらず黒い手袋。


 けれど、不思議なことに、今日のそれは“異質”には見えなかった。むしろ、彼の輪郭を柔らかく、穏やかに浮かび上がらせていた。


「コーヒー、お願いできますか?」


 誰かの声に、彼は静かにうなずき、無駄のない動きでコーヒーを淹れていく。

 手元を見ていると、まるで音楽を奏でるようだった。


 ──一度、私がうっかりメニュー表の角で指を切ったとき。

 成瀬くんはすぐにこちらを向いて、眉をしかめた。


「……大丈夫?」

「あ、うん。ごめん、ちょっと紙で……」

「見せて」


 彼はそっと、私の手を取った。

 ほんの小さな切り傷。

 それでも彼は、ポケットから絆創膏を取り出し、まるで儀式のように丁寧に貼ってくれた。


 その光景を、誰かがぼそりとつぶやいた。


「……やっぱり付き合ってるんじゃん」


 ざわめきは広がらなかった。

 けれど、空気の温度だけが、すこしだけ下がったような気がした。


 私は、顔を上げなかった。声のした方を見なかった。

 ただ、成瀬くんの指先が、そっと私の手から離れていく気配だけを、感じていた。


 私は、その手を追いかけるように、小さな声で言った。


「ありがとう。……成瀬くんがいてくれてよかった」


 彼は、数秒の沈黙のあと、ボソリと答えた。


「別に。でも、一番に気づけるの、俺でよかった……って思った」


 その言葉に、胸の奥がじわっとあたたかくなった。

 “気づける”っていうのは、たぶん、私が指を切ったこと。たぶん、それ以上の、もっと小さな揺れのこと。


 私たちは、まだ“付き合っている”なんて名前もないまま、でも、ちゃんと相手のことを見ていて、誰よりも早く、変化を感じ取ろうとしている。


 ふれられなかった手よりも、ふれなくても届く気持ちのほうが、ずっと確かに“ここ”にある気がした。

 

 

 ◇


 文化祭が終わりかけたころ。

 カーテン越しに夕陽が射し込む教室で、誰かが冗談めかして訊いた。


「ねえ、佐藤と成瀬ってさ、結局どういう関係なの?」


 クラス中が、ちらりとこちらを見る。

 私は成瀬くんと、一瞬だけ視線を交わした。


 ふたりとも、微笑みもせず、焦りもせず。

 ただ、同じタイミングで、ふっと目をそらした。


 それが、答えだった。


【4-4 “ふたり”のままで、世界のなかにいる】


 文化祭が終わった放課後、教室にはもう、人の声も音楽も残っていなかった。


 外された装飾、机の間を流れる、ひんやりとした夕方の空気。

 黒板の隅に残ったチョークの落書きだけが、かすかに今日を名残惜しんでいた。


 私は、窓際に立っていた。

 傾いた陽の光が、長い影を机の上に落としている。


 教壇の前では、成瀬くんが最後の片付けをしていた。


 カップをまとめ、ゴミ袋を結び、静かな手つきで作業を進める。

 誰もいない教室の中で、彼の背中だけが、変わらずそこにあった。


 私は声をかけた。


「ねえ、今日、どうだった?」


 成瀬くんは振り返らずに答える。


「思ったより、疲れなかった」

「そっか。……よかった」


 少しの沈黙。

 それは、言葉を探すための時間だった。


「私、思ったの」

「……何を?」

「“ふたりでいる”ってことに、名前がなくても、ちゃんと意味はあるんだって」


 成瀬くんは、作業を止めて、こちらを見た。私は、まっすぐ彼を見返して、言葉を重ねる。


「“付き合ってるの?”って聞かれたとき、なんて答えたらいいかわかんなかったけど。でも、私たちの関係は、名前よりも、ちゃんと“関係”になってると思う」


 成瀬くんは、一歩だけ近づき、そっと私の隣に立った。


「……俺も、そう思ってた」


「ほんと?」


「“ふたりでいる時間”が、俺にとっては、一番、自分でいられる時間だったから」


 私は手すりに指をかけた。


 右隣に立つ彼の肩が、制服越しにほんの少し、触れる。

 それだけで、胸の奥に静かな波紋が広がった。


「……変だよね。名前もないのに、こんなに大事だなんて」

「でも、大事って気持ちは、最初から名前なんか、必要としてなかったのかもな」


 成瀬くんらしい、静かな言葉だった。

 言葉の粒が、胸の深いところに、すとんと落ちた。

 

 私は、ふっと笑った。

 

 彼の右手は、ポケットの外に出たまま、私の手に、ふれられる距離にあった。

 それでも――ふれなかった。


 けれど、その“ふれられなさ”すら、私は嬉しかった。

 直接ふれなくても、ここにいることが、なにより確かだと思えたから。


 “ふたりでいる”ということ。

 それはたぶん、恋よりもずっとゆっくりで、でももっと深く、静かな速度で、私たちをつないでいた。 

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