第三章:波の音、手のひらのぬくもり
【3-1 波の音のほうへ】
期末テストの最終日。
放課後の教室には、疲労と解放感が混ざった空気が漂っていた。
それなのに、私はなんだかぼんやりしていた。
もうすぐ夏休み。明日が終業式。
つまり――成瀬くんと、毎日顔を合わせる日々が、いったん終わってしまうということだった。
これまでみたいに、屋上で並んでお弁当を食べたり、音楽室で話したり。
その全部が、“また来週ね”じゃなくなる。
そう思っただけで、胸のあたりがすこし苦しくなった。
(会えない……のかな、しばらく)
彼には彼の生活があるし、こっちから何度も誘うのも、ちょっと図々しい気がして。
でも、本当は――隣の席に彼がいる。それだけで、今日という一日が、ちゃんと始まる気がしていた。
そんなことを考えながら、私は成瀬くんと一緒に、プリントをまとめていた。
委員の仕事。最後の、雑用みたいなもの。
「……たまには、もっと遠くへ行ってみたくなるな」
彼が、ぽつりとつぶやいた。
思考が、ぴたりと止まった。
「え?」
「ここじゃない、どこか。静かで、人の気配もないような場所。
誰の痛みも声も感じないところに、行ってみたいと思うときがある」
私は一瞬、目を見開いてから、それが“会えるチャンス”かもしれないと、心のどこかが跳ね上がった。
「ねえ、それなら、海に行ってみない?」
「……海?」
「私ね、夏になると、祖母の家に数日だけ泊まりに行くんだ。海のそばで、人も少なくて、すごく静か。
電車で行ける距離だし、駅からも近いから、日帰りでも行けるよ」
「……人が少ない、ってのは……本当に?」
「ほんと。地元の人しか来ないような浜辺。海の家も少ないし、
波の音だけしか聞こえないような時間もある」
成瀬くんは黙ったまま、教室の窓の外を見ていた。
夕焼けが、ガラスに淡い色を溶かしている。
「夏休み、最初の土曜日。空けといて。
私、朝から駅で待ってるから。……もちろん、無理だったらいいけど」
私はそう言いながらも、どこかで“来てほしい”と願っていた。
いつものように、彼がはっきり「行く」と言わなくても、
あの沈黙が“うん”の代わりだって、もうわかる気がしていた。
「……わかった」
低く、短いその返事が、たしかに聞こえた。
私は、心の中でそっとガッツポーズした。
会える――夏休みのなかで、ちゃんと、成瀬くんと。
それが、何よりもうれしかった。
【3-2 指先から伝わるもの】
海は、本当に静かだった。
ひと気の少ないその浜辺には、パラソルも音楽もなかった。
ただ、波が寄せては返す音と、風が草むらを撫でる音だけが、耳の奥でやさしく響いていた。
成瀬くんと待ち合わせた駅の改札には、いつもより少しだけ涼しい表情をした彼がいた。
右手の手袋はそのままだったけど、
制服ではなく、薄い長袖のシャツとデニム、そしてスニーカー――
見慣れない私服に、私はちょっとだけ、胸が高鳴った。
「……早かったな」
「うん、ちょっと緊張して寝られなかった」
私が言うと、成瀬くんはほんの一瞬だけ、口元を緩めたように見えた。
そこから電車で30分ほど、駅から海までの道を歩いて、
祖母の家に少しだけ顔を出して荷物を預けて――
そして、ようやくこの浜辺にたどり着いた。
「どう? 静かでしょ?」
「……うん。たしかに」
成瀬くんは、視線を遠くの水平線へと向けて、
波打ち際に足を踏み出した。靴を脱いで、素足を砂に埋めていく。
私は、その隣でサンダルを脱ぎ、ゆっくりと水際まで歩く。
波が足元に触れるたびに、ひんやりとした水がくるぶしを撫でていく。
「……こういう感覚って、他人からは感じないんだね」
不意に、彼が言った。
「ん?」
「水の冷たさとか、風の重さとか。そういうのは、“自分”にしか感じられない」
私は、その言葉にふっと笑った。
「ちゃんと自分の感覚、あるんじゃん」
「……そうだな。忘れてただけかも」
私たちは、そのまま浜辺を並んで歩いた。
声を上げる必要のない時間。
沈黙が、心地よい“会話”になるような、そんな時間だった。
◇
お昼は、近くの小さな食堂で海鮮丼を食べた。
誰も気づかないような、ひっそりとしたお店。
成瀬くんは、あまり魚が得意ではないらしく、焼き鮭定食を選んでいた。
「……白いごはんと鮭があれば、十分」
「……めっちゃストイックな選択」
「食べ慣れてるから、安心する」
それを聞いて、私はちょっとだけ笑った。
彼の“痛み”は、日常のどこにでもあるものに触れすぎて、
逆にこういう“安定”を好むようになったのかもしれない――
そんな気がした。
◇
午後、ふたたび浜辺に戻った私たちは、
堤防の上に並んで座った。
風がすこし強くなって、帽子のつばが揺れた。
私はうっかり、サンダルを落としそうになって、
思わず身を乗り出したとき――
「危ない」
成瀬くんの右手が、私の手首を軽くつかんだ。
黒い手袋ごしの手。
それは、まるで瞬間的な本能のように、迷いなく伸びていた。
だけど、そのまま数秒、彼は固まった。
「……ごめん」
すぐに手を離そうとした彼に、私は慌てて言った。
「いいよ。触れてくれて、うれしかった」
彼の目が、ふと揺れた。
「痛くなかった?」
「ううん。私、今日ずっと元気だったし、たぶんなにも感じなかったでしょ?」
「……ああ。感じなかった。お前の痛み、今日は、ない」
私は、少しだけ笑って、手袋ごしの彼の手に自分の指を重ねた。
「そっか。じゃあ、こうやっていられる時間も、あるんだね」
「……たまに、なら」
「たまに、でいいよ」
風がふたりの髪を撫でて、波の音がすべての言葉をやさしく包んでいく。
“触れられない”と思っていたその距離が、
“たまに触れられる”になったことが――
今日という日の、いちばんの奇跡だった。
【3-3 夕暮れの砂浜、きみの右手】
陽が傾きはじめると、海はまるで深呼吸をしているみたいに、
静かで、そしてちょっとだけ寂しい音をたてるようになった。
堤防から降りて、私たちはふたたび波打ち際を歩いていた。
昼間は白っぽかった空が、今はゆるやかにオレンジ色に染まりはじめていて、
砂浜も、私たちの影も、長く、やわらかくのびていた。
「……昔ね、小さいころ、波が怖かったことがあるんだ」
私は、靴を片手に持ちながら言った。
「音がすごくて、“なにかに飲み込まれちゃう”って思って、泣いたの。
でも今は、なんか安心する。全部洗い流してくれそうで」
成瀬くんは、波を見つめたまま、小さく頷いた。
「わかる。……何かを吸い込んで、返してるみたいだ」
「うん。吐いたり吸ったりしてる。まるで、海も生きてるみたい」
私は笑って、彼の横顔を盗み見る。
風が彼の髪をかすかに揺らしていた。
そして、ふと思ったことを口にした。
「ねえ……もしさ、今ここで、手袋を外したら――何か、変わると思う?」
成瀬くんは、足元の波に視線を落としたまま、答えなかった。
でも、その沈黙は拒絶ではなく、考えている沈黙だった。
私は続けた。
「私ね、たまに思うんだ。“なにか”が変わる瞬間って、たぶんすごく静かで、気づいたらもう戻れないんじゃないかって」
「……たしかに」
「でも、戻れないって、悪いことじゃないよね。
だって、“変わってしまったあとの世界”に、ちゃんと私がいれば、それでいい」
風がふたりのあいだを通り抜けた。
空は、もう青とオレンジが混ざりあって、海の境目をぼかしている。
成瀬くんは、そっと右手を見下ろした。
黒い手袋に包まれた手。
誰にも触れないようにしてきたその手を、彼はゆっくりと、外しはじめた。
私は、息を止めた。
彼の右手が、海風のなかにあらわになる。
色白で、指が長くて、でもどこかぎこちなくて――
まるで、“いま初めて自分の手を見た人”みたいな仕草だった。
「……こわいんだよな」
ぽつりと、彼が言った。
「この手が、誰かの痛みを引き寄せるって、ずっと思ってたから。
だから、触れることも、触れられることも、避けてきた」
「うん」
「でも……今日は、何も感じなかった。お前が、隣にいても」
私は、彼の右手にそっと手を伸ばした。
でも、指先が届く直前で止めた。
「……触れていい?」
その問いに、成瀬くんはほんの一拍、目を伏せてから、うなずいた。
私は、そっと彼の右手に自分の手を重ねた。
波の音が、少しだけ遠ざかった気がした。
彼の手は、あたたかくて、少し汗ばんでいて、それがなんだか妙に安心した。
「……どう?」
「……痛くない」
「でしょ?」
「不思議だ。お前に触れてると、他の痛みまで感じにくくなる」
私は、手をつないだまま、笑った。
「それって、私が特別ってことかな」
「……たぶん、な」
夕暮れの海辺で、手をつないで並んで座っている。
誰にも見られていなくて、誰にも知られなくて、
でもそれが、今この瞬間の私たちにとっては、
世界のすべてだった。
「……もう少し、このままでいてもいい?」
「うん」
成瀬くんの声は、波よりも小さかったけど、
それでも私は、それを一生忘れない気がした。
3-4 帰り道は、まだ陽が残ってる
駅までの道は、ゆるやかな坂道になっていて、
帰り道の傾いた日差しが、私たちの背中を押していた。
セミの声はまだ遠くて、海の潮の匂いだけが、街の角を曲がるたびにふっと追いついてくる。
私と成瀬くんは、あのまま手をつないでいた。
ぎこちないけれど、でも自然に。
誰にも見られない、その距離を、ちゃんと“歩幅”に変えながら。
「……これって、さ」
ふいに、私が言った。
「なにかが変わる“途中”ってことなんだよね、きっと」
彼は、少しだけこちらを見たあと、前を向いて歩き続けた。
「変わるって、いいこと?」
「わかんない。でも、変わらないままだと、今日みたいなことはなかった」
「……そうだな」
成瀬くんの声は、少しだけ低く、でもやさしかった。
「でも、変わったら失うものもあるかもしれない」
「うん。でも、“それでもいい”って思えるなら、変わってもいいってことなんじゃないかな」
言いながら、自分の言葉に少し驚いた。
まるで、未来の自分に手紙を出してるみたいな気持ちだった。
電車の時間にはまだ余裕があって、私たちはゆっくり歩いた。
祖母の家の前を通ると、軒先の風鈴が、からんと一度だけ鳴った。
それが、今日の“区切り”を知らせる合図のように聞こえた。
「……ありがとう」
「え?」
「今日、ここに連れてきてくれて」
私は、成瀬くんの手を見下ろした。
手袋は、もう彼のポケットの中だった。
右手はそのまま、私の手をちゃんと握ってくれていた。
「こちらこそ。来てくれて、うれしかった」
「俺、あんまり“うれしい”って感覚が得意じゃないけど、
……今日のことは、きっと忘れない」
それは、彼なりの精一杯の告白だった。
私は、頷いた。
「私も。ねえ、また来ようね。
夏が終わる前に、もう一回。……次は、お弁当作ってくるから」
「それ、俺のも?」
「もちろん。甘い卵焼き入り」
「……じゃあ、覚悟しとく」
夕暮れの光が、彼の頬に赤く差し込んでいた。
その横顔を、私はずっと覚えておきたいと思った。
きっと、忘れない。
それが、たとえどんな未来に流れていっても――
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