第二章:痛みの向こうに(後半)
【2-3 となりにいるということ】
校庭の空は、やけに青かった。
体育祭当日。
朝から照りつける日差しはすでに夏の気配を帯びていて、白線の引かれたトラックの上には、熱気と足音と笑い声が渦を巻いていた。
私は赤組、成瀬くんは白組。
別々のテントに分かれて、互いの様子はあまり見えないはずなのに――私はさっきから、ずっと、そっちを見ていた。
(あ……眉間のシワ、いつもより深い)
成瀬くんは、人が多いところが苦手だ。
人が多いということは、それだけ“痛み”があるということだから。
捻挫、靴擦れ、頭痛、腹痛、緊張による過呼吸、脱水症状――みんなが少しずつ無理してる、そんな場所。
「……大丈夫かな」
遠くで、白い制服の彼が、タオルを首にかけて座っていた。
◇
昼過ぎ、リレーの時間がやってきた。
会場の熱気はピークに達していて、私は出番を終えたばかりの汗だくの状態で、白組のスタートラインを見つめていた。
三走目に立っているのが、成瀬くん。
目を伏せ、帽子のつばを少し下げ、黒い手袋の右手が、きゅっと拳を握っていた。
陽炎がゆらゆらと、その輪郭を溶かしているように見えた。
――走り出した。
フォームはきれいだった。スピードも悪くない。
でも、第二コーナーを回ったそのとき――
「あっ……!」
成瀬くんの足がぐらついた。
そのまま、膝から崩れ落ちるように、トラックの上に倒れた。
「成瀬くん!」
自分でも驚くくらいの声が出た。
すぐに駆け出していて、気づいたら、彼のそばにしゃがみこんでいた。
「どうしたの!? どこが痛いの?」
彼は、顔をしかめながら、小さな声でつぶやいた。
「誰かが……捻った、みたいで……強く、近くで……」
「え?」
彼の視線の先に、白組のアンカーらしき男子が足首を押さえて座り込んでいた。
彼の痛みを――成瀬くんが、感じ取ってしまったのだ。
「ダメだよ、立てる? 一回、保健室行こう?」
「……いや、すぐに治まる。慣れてるから、大丈夫……」
「あなたの“大丈夫”は、私の“大丈夫じゃない”に該当するって、そろそろ理解してほしい!」
私は強引に彼の腕を取り、肩を貸した。
ふらつきながらも、彼は黙って身を預けてきた。
◇
保健室には、誰もいなかった。
扇風機だけが静かに回っていて、外の喧騒が嘘みたいに遠い。
成瀬くんはベッドに横になり、私はその隣の椅子に腰を下ろす。
「少し、楽になった?」
「……ああ」
水筒を差し出すと、彼は礼も言わずに受け取って、静かに飲んだ。
私は、彼の黒い手袋が布団の上にぽつんと乗っているのを見つめた。
その下にある手が、どれだけの痛みを記憶してきたのか、想像するだけで胸がきゅっとなった。
「……俺、やっぱり向いてない。こういう場」
ぽつりと、成瀬くんが言った。
「うん。それは正直、そう思う」
「ひど」
「でもね、逃げなかったの、すごいと思う。ちゃんと出たんだから」
彼は、黙って天井を見ていた。
その表情が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
「……ねえ、成瀬くん」
「ん」
「今日のこと、すごく“青春”って感じだったよ」
「……走って倒れるのが?」
「ううん、そうじゃなくて。
誰かが誰かのことを必死で思って、走って、支えて――そういうの全部込みで。
青春って、たぶん、“誰かの隣にいようとすること”なんだと思う」
彼は、まばたきもせずに天井を見つめていた。
「……たまに、分からなくなる」
「なにが?」
「俺が感じてるのが、誰かの痛みなのか、自分の痛みなのか。
ずっと誰かの感覚を抱えてると、自分の境界線が曖昧になるんだ」
私は、彼の手元を見た。
黒い手袋をした右手が、そっと布団の上で休んでいた。
「じゃあ……私が“目印”になるよ」
「……目印?」
「たとえば、私が怪我したとき、あなたがそれを感じたとしたら――
“これは葵の痛み”ってわかるでしょ?
それをちゃんと知ってれば、それ以外の誰かの痛みは、“自分じゃない”って分けられるかもしれない」
彼は、ゆっくりと目を閉じた。
「……そんなの、頼りない」
「うん。でも、ほら。
夜道で遠くに小さな光が見えると、進む方向って、なんとなく分かるじゃん。
それくらいの存在でもいいから、私が、あなたの方向を教える光になりたい」
彼は、もう何も言わなかった。
でもその代わりに、目を閉じたまま、表情が少しだけほどけていた。
痛みと一緒にある人の手を、ちゃんと見つめる。
それが、私にできるたったひとつの“隣にいる”方法だった。
その黒い手袋の下には、誰にも触れさせない痛みが眠っている。
それを知ってしまった私は、もう簡単に「大丈夫?」なんて言えなくなっていた。
2-4 これは私の青春
その日、私は保健室から教室へ戻ったあとも、ずっとぼーっとしていた。
体育祭は終わり、クラスのみんなは片付けや記念撮影でわいわいしていたけれど、
私の頭の中では、成瀬くんの「目印、か……」という声が、まだ静かに響いていた。
彼のあの右手が、誰かの痛みに触れているなんて、入学式のときは思いもしなかった。
いや、そもそも。
入学式の朝、私が頭の中で掲げていた“高校生活の理想”って、どんなだったっけ。
恋をして、告白されて、放課後に公園でジュースを分け合って、帰り道に寄り道して――
そういう“わかりやすい青春”を、ただなぞってみたかっただけだった気がする。
でも、いま私の隣にあるのは、そんな図式に当てはまらない、変な関係だった。
◇
翌日の昼休み、私は屋上に向かった。
成瀬くんが来るかどうかはわからなかったけど、なんとなく、そこに行きたくなった。
風が、少しだけ強かった。
いつもの場所に腰を下ろして、ぼんやりと空を眺めていると、
数分後、扉が開いて、彼が姿を現した。
「あ、来た」
私は、自然に笑ってしまった。
成瀬くんは、無言のままこちらに歩いてきて、私の隣に座った。
右手は手袋をつけたまま、制服の袖の影に隠れていた。
「昨日は、ありがとう」
「ううん。私が勝手にやっただけだし」
「でも……助かった」
その言葉が、きちんと“彼の意志”で言われたものだとわかって、
胸の奥が、すこしだけあたたかくなる。
私は、ふと尋ねた。
「ねえ、成瀬くんにとって、“青春”ってなんだと思う?」
彼は、少し考えてから言った。
「……無茶しても、笑って済ませられる時間、かな」
「それ、けっこういい言葉だね」
「お前は?」
私は、目を細めて、空を見上げた。
「うーん。昔は、恋とか、放課後の寄り道とか、キラキラしたイベントを“青春”って思ってたけど……
今は、“誰かのとなりにいること”かなって思う」
「……となりに、いる?」
「そう。痛みとか、苦しさとか、笑えないこととか。
そういうのを抱えてる人のとなりに、ちゃんと座っていられること。
それが青春なら、私はいま、ちゃんと青春してるなって思ったの」
成瀬くんは、風に吹かれながら、じっと私の顔を見ていた。
いつもみたいに、無表情というわけでもなく、かといって笑ってるわけでもない。
でもその目は、まっすぐだった。
「……お前、やっぱ変わってる」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
私は、小さく笑った。
きっと私たちは、どこまでいっても普通じゃない。
それでも、普通じゃないなりに、ちゃんと関係を築いていくことはできる。
そんな気がしていた。
誰かの“となり”は、ただの場所じゃない。
心がその隣にいるとき、それを人は“青春”って呼ぶのかもしれない。
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