《ふれられない》きみと、手をつなぐ方法

秋初夏生

プロローグ


 高校生活のはじまりは、春の匂いがした。

 冷たいようで、どこかあたたかくて。乾いているようで、湿り気もあって。

 それはきっと、冬が少しだけ居残っていたからだと思う。


 桜が満開だった。

 いままで何度も見たはずの満開の桜が、今日はまるで違う風景に見えた。

 それはたぶん、私の中に――「これから」という空白があったから。


「高校生活、青春、恋愛!」

 ……なんて、雑誌の見出しみたいに唱えてみる。

 きっと他人から見たら、どこにでもいるふつうの女子高生にしか見えないと思う。

 でも私の中では、今日が物語の始まりだった。


 中学までは、きっちりと未来の計算式に従って生きてきた。

 塾、定期テスト、習い事、資格取得、将来の選択肢を増やすための戦略的日々。

 それなりに成果はあったけど、どこかで心のどこかが置いてけぼりになっていた。


 だから高校では、ちゃんと“今”を楽しんでみたかった。

 

 誰かを好きになって、放課後を一緒に歩いて、コンビニの新作スイーツを半分こして、

 笑って、拗ねて、泣いて、抱きしめられて――

 そういう、「よくある青春」を、ちゃんと経験してみたかった。


 クラス発表の前で名前を見つけ、教室に入って席に座った。カバンを置いて一息ついてから、ふと隣の空席を見た。

 その席に座る人がどんな人なのか、私はまったく知らない。でも、特別な出会いが待ってそうで、何となくワクワクした。


 そのとき、教室のドアが、静かに開いた。

 次の瞬間。

 風の音が止まったような、教室がほんの少し静まり返ったような、そんな気がした。

 

 入ってきたのは、黒髪の男子生徒。長めの前髪が片方の目を隠していて、背が高くて細い。

 一見すると、静かで目立たないタイプ――だけど、何かが引っかかった。


 そう。右手。


 黒い手袋をしていた。

 制服と違和感なく馴染んでいたけれど、なぜだか、その部分だけ目が離せなかった。

 

 その人は、無言のまま席についた。

 そして一言だけ、前を向いたままぼそりと言った。


「……成瀬遥人」


 それが、名前。

 私の隣の席の、これから毎日見ることになる、クラスメイトの名前だった。


 何かを隠しているような、何も見ていないような。

 その横顔には表情がなくて、でも――どこか、さみしい光を帯びていた。


 そのとき、思った。

 この人が、私の高校生活をたぶん大きく変える。

 

 それが恋なのか、運命なのか、まだわからなかった。

 でも、何かが静かに動きはじめたことだけは、確かだった。


 普通の春を望んだはずの私が、普通じゃない春に出会った――そんな始まりだった。

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