第十三章

十三章


春の午後。

凛はキッチンでコーヒーを淹れながら、ふと、昨日の出来事を思い出していた。

彩音と元妻・美穂と、偶然街で出会ったときの、あの緊張感。

何も言えなかった自分が、少し情けなくもあった。

リビングでは、雄一がテレビを読みながら、静かにコーヒーを待っていた。

テレビのチャンネルがランダムに規則正しく変えられていた。

「……昨日のこと、ずっと考えてる?」

凛がコーヒーを運びながら、そっと問いかける。

雄一は目を伏せ、しばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「彩音の目が、刺さるようだった。

……あいつは、俺に会いたくて来たわけじゃない。俺の横に君がいたから、余計に傷ついたんだと思う」

「でも、私たちは――」

「わかってる。君を責めてるわけじゃない。

ただ…俺はずっと、自分のことだけで精一杯だった。あの子を救ってやれなかった。

その上で、新しい人生なんて、手に入れていいのかって…自問してる」

凛はその言葉に、胸が締めつけられるのを感じた。

彼の不器用な優しさが、時に彼自身を苦しめることを、よく知っていた。

「ねぇ、雄一さん。私は…」

凛の言葉が詰まる。

本当は、“私はあなたと結婚したい”と、もう一度伝えたかった。

だけど、彼の顔には“罪の意識”が深く刻まれていた。

自分と彩音、両方を幸せにはできないと、彼の中で何かが決まってしまっている気がした。

「彩音に、謝りたい。でも、謝ったところで戻れるわけじゃない。

なのに、君に“幸せになろう”なんて言っていいのか、わからない」

凛は、小さくため息をつきながら微笑んだ。

「私は…あなたが背負ってるものごと、愛していきたいと思ってるの。

過去も、痛みも、全部。それが無理なら、私はそばにいる意味がない」

言葉に嘘はなかった。

けれど、その言葉が届くには、雄一の心にはまだ“時間”が必要だった。

ふたりの間に、沈黙が落ちた。

暖かいはずの春の日差しが、少しだけ遠くに感じられる午後だった。

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