第三章

第三章


数日後。

市の福祉課と児童相談所の判断により、娘・彩音は「環境を一時的に変えることが望ましい」とされ、母・美穂と共に彼女の実家へ移ることとなった。

決定はあまりにもあっけなかった。

「私がついてるから、しばらくこっちで暮らそう。お母さんもいるし、あんたの好きな従姉妹もいるでしょ?」

彩音は無言で頷いた。

自分が引き起こした“選択肢”が、誰かを苦しめていることを、うっすらとは感じていた。

でも、それを受け止めきれるほど、大人でもなかった。

引っ越しの日の朝。

佐藤家のリビングには、ダンボールがいくつか積まれ、必要最低限の衣類や教科書、タブレットなどが詰められていた。

雄一は、冷蔵庫の脇で立ち尽くしていた。

何か言いたいけど、何を言えばいいかわからなかった。

「……美穂」

「……ありがとう、ここまで。あの子には、少し休みが必要だと思う。あなたも、ね」

「……俺は、家族を守ってるつもりだった」

「私もそう。だけど、それがズレたときに――誰かが限界を迎えるのよね。たぶん、今回は彩音だった」

その言葉には責めるようなトゲはなく、ただ、疲れた母親の声だった。

玄関で、彩音が靴を履いていた。

その姿に、雄一は言葉をかけることは出来なかった。

「……」

彩音は、ふと振り返った。

その瞳に怒りはなかった。けれど、父を見ても“懐かしさ”のような感情も見えなかった。


そして黙って、玄関を出た。

家の中は、静まり返っていた。

テレビの音も、誰かの笑い声も、まったくない。

雄一はソファに腰を下ろし、リビングの天井を見上げた。

ついこの間まで、あんなに娘のことで怒鳴り、苛立ち、未来の話をしていたのに――

今、その未来を語る相手は誰もいなかった。

ふと、彩音の残した小さなイヤホンが、ソファの隙間に落ちているのが見えた。

「……置いていったか」

手に取ってみても、もうそれで繋がる音はなかった。

この夜、佐藤雄一は一人でカップラーメンをすする。

味はしない。ただ、腹を満たすためだけに。


年が明けて間もない、冷たい雨の降る午後。

雄一は有休を取り、美穂の実家近くのカフェで、久しぶりに彼女と顔を合わせた。

「……久しぶり」

「うん」

会話はそれだけだった。

ふたりの間に流れる沈黙は、昔とは違う。

馴染みのあるようでいて、まるで他人と話しているような距離感。

テーブルの上には、彩音の学校の報告書と、養育費に関する資料、それから一通の離婚届が置かれていた。

「……こんな形になるなんて、思わなかったよな」

「ほんとにね。コロナが流行りだした頃から、少しずつズレていってた。あなたは仕事で家にいないし、私は家の中でひとり焦ってた」

美穂はコーヒーに口をつけながら、遠くを見るように言った。

「彩音のこと、あの頃は何が正しいか、わからなかった。今も正直、分かんない。だけど……少なくとも、今のままじゃ、お互いが壊れる」

雄一はゆっくりと頷いた。

「俺もな……自分が“ちゃんとした父親”だって思いたくて、がむしゃらだった。でも、娘の気持ちなんか、全然見てなかったんだと思う。正しいこと言ってれば伝わるって、どこかで勘違いしてた」

「……私たちお互いに色々間違えたんだと思う…」

そう言って、美穂は静かに離婚届に署名をした。

それを見届けた雄一も、迷いなくペンを取った。

カリ、カリ……という音だけが店内に響く。

二人とも涙を流すことはなかった。

長い年月をかけて静かに冷えていった関係は、泣いて終わるには、もう遠すぎた。

「ありがとう、今まで」

「……こちらこそ」

別れ際、美穂はほんの少しだけ微笑んだ。

その表情には、“憎しみ”ではなく、“諦めと穏やかさ”が混じっていた。

カフェを出たあと、雄一はしばらくその場に立ち尽くしていた。

雨はいつの間にか止んでいた。


あの日、家族を守ると決めた自分は、今日、ひとりの男へと戻った。

だけどまだ、「父親」は終われない。

それが、唯一残された彼の役割だった。

離婚が成立して、初めて迎えた週末。

佐藤雄一、40歳。

久々の“完全なるひとり”の休日だった。

昼過ぎに目覚め、ベランダでタバコをふかしながら缶コーヒーを飲む。

洗濯機の音だけが規則正しく響いていた。

「……なんか、独身の大学生に戻ったみたいだな」

思わず口元が緩む。

誰にも邪魔されず、誰にも文句を言われない。

飯も自分の好きなタイミングで、コンビニ弁当か外食か、気が向けば自炊でもいい。

夜にはビール片手にバラエティ番組を観て、眠くなればベッドへ。

“自由”は、確かにそこにあった。

翌週。

仕事帰り、ふらりと立ち寄った居酒屋。

カウンター席で、焼き鳥とハイボールを前にひとり乾杯。

周囲の席からは、同僚同士の会話やカップルの笑い声が聞こえてくる。

「そういや俺、こんなふうに時間を使うの、何年ぶりだろうな」

スマホを取り出しても、通知は何もなかった。

LINEの履歴を遡ると、美穂の名前が消えていた。

彩音のアカウントは、既読すらつかない。

ふと、思い立って街を少し歩いてみた。

夜の繁華街、にぎやかな街並み。

カップル、若者たちが笑いながら歩いていく。

雄一は立ち止まり、深く息を吸った。

「……こんなに自由なのに、どうして、こんなに静かなんだろうな」

ポケットの中で、鍵の束がカチャリと鳴る。

それは、もう誰のためでもない、自分だけの生活の音。

“自由”は思っていたよりも、音がしないものだった。

その夜、帰宅してシャワーを浴びたあと。

冷蔵庫の奥にしまってあった、彩音が好きだった桃のゼリーがふと目に留まる。

賞味期限は、先月で切れていた。

「……あいつ、こういうの冷やして食うの好きだったな」

冷蔵庫の扉を閉めると、部屋に静けさが戻った。

テレビもつけず、明かりも最小限に。

その静けさの中、雄一はベッドに横たわりながら、天井を見つめていた。

“満喫する”と決めた独身生活は、確かに自由だった。

でも、何かが――ずっと、足りなかった。

それが「誰かと過ごす日常」だったのか、「責任感」だったのか、「もう取り戻せない何か」なのか。

雄一にはまだ、それが何か、分からなかった。

週末の夜、静まり返った部屋。

酔いが回ったのか気がつけばソファの上で朝を迎えていた。



蝉の鳴き声が薄く聞こえる夏の午後。

スーツの襟元を軽く指で緩めながら、佐藤雄一は〇〇市内の高層ビルのひとつ、〇〇商事のエントランスをくぐった。

流通業界で長年働いてきた彼だが、近年は物流の知見を活かして企業向けのコンサルティングにも携わるようになっていた。

この日もその一環として、〇〇商事の物流部門への訪問だった。

「失礼します」

受付に声をかけた雄一の前に、ひとりの女性が静かに立ち上がった。

涼やかな目元に清潔感のある身だしなみ、胸元に『水島』の名札が光る。

「ようこそお越しくださいました。ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「山川トランスポートの佐藤と申します。物流コンサルティングの件で田中課長にアポイントをいただいております」

彼女は頷き、内線電話に手を伸ばした。その動作は控えめでありながらも、どこか芯の強さを感じさせる。

雄一はふと、ガラス越しに映る自分の顔に目を留めた。

寝不足と連日の業務で、いつの間にか目の下には影が落ちていた。

それでも、社会人として、父として、自分はまだ立っていなければならない。そんな疲れの色が、わずかに表情ににじんでいた。

「田中課長にご連絡いたしました。少々お待ちくださいませ」

水島はにこやかに微笑んだ。その笑顔に、ほんの少しだけ、雄一の肩の力が抜けた気がした。

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