7.夜を渡る者たち
ルークに促され、セシリアは草むらの中を歩いていた。
足元が不安定で、慣れない地面に何度もつまずきそうになる。その度にルークが支えてくれるが、普段の生活との違いを痛感せずにはいられない。
やがて、川のせせらぎが静かな夜に響いてきた。
王都の西を通り、北の海へと続く大河で、昼間なら様々な商船が行き交う重要な水路だ。夜の川面は静かで、月明かりが水の流れに反射してきらめいている。
シェレンスタークに向かうには、必ずこの川を渡る必要がある。そのため王国一と言っていいほどの立派な大橋が掛かって居るが、その分今までのように隠れながら移動することは出来ない。
どうするのかと思っていたら、あそこだ、とルークが指差す。目を凝らせば、小舟が係留されているのが見えた。
そして船着き場には、すでに誰かが二人の到着を待っている。
「遅かったな」
待っていた男は、ルークを見ると軽い調子で声をかけた。
彼はルークより少し年上に見えた。同じように鍛えられた体格と、経験豊富な者特有の落ち着いた雰囲気を持っている。おそらく同じ組織の人間なのだろう。
「すまない。予定より時間がかかった」
ルークの返答は簡潔だったが、その声には安堵の色が含まれていた。
男はセシリアの存在に気づくと、丁寧に頭を下げた。
彼の礼儀正しさに、セシリアは少し居心地の悪さを感じる。
「お嬢様、初めまして。マルコと申します」
「セシリア……です。お世話になります」
名乗りながら、セシリアは複雑な気持ちになった。家名はもう名乗らない方が良いだろう。
もうお嬢様などという身分では無くて、今はただの罪人として追われる身なのだから。
「川を渡りましょう。向こう岸に馬を用意してあります。夜明け前には十分な距離を稼がないと」
マルコが二人を案内する。小さな船だがしっかりとした造りで、長距離の移動にも耐えられそうな頑丈さがあった。
彼らの計画がいかに周到であるかが、このような細部からも伺えた。
──まさか、そんなに前から計画されていたとでもいうのだろうか。
聖女の暗殺も、セシリアへの冤罪も。
ルークはセシリアが冤罪だと知っていると言っていた。だというのに、彼らはなぜ阻止しなかったのだろう。
準備をする二人を傍で眺めながら、ここに来て新たな疑問が湧き上がった。それはセシリアの胸の内で大きく膨らみ、今にも口から飛び出しそうになる。
なぜ? なぜ阻止してくれなかったの?
そうしたらセシリアがあんな凄惨な場面を見る必要も、こうして追われることもなかったというのに。
唇が小さく開きかけた時、マルコが振り返った。
そして彼の背後に見える、川面を照らす月の光。追手がいるかもしれない夜の静寂。今の自分たちの置かれた状況が、嫌でも意識に上る。
……今じゃない。今はそんなことを聞いている場合ではない。
セシリアは奥歯を噛み締めて、胸の奥に渦巻く疑念を強引に押し戻した。
答えを求める気持ちと、それを口にすることへの躊躇いが心の中で静かな戦いを繰り広げている。しかし今は、生きることが最優先だ。
「どうかしたか」
ルークの声が、セシリアの葛藤を遮った。
「いえ……何でもありません」
気遣わしげな瞳でこちらを見るルークの優しさも、先程までのようには素直に受け取ない。
やや素っ気ない返しになったのは、抑え込んだ感情のせいだろうか。
しかしルークは追及することなく、マルコと共にセシリアがボートに乗り込むのを手伝ってくれた。
それでも、押し殺した疑問は心の奥底でくすぶり続けている。まるで消えない火種のように。
川を渡る間、セシリアは振り返って王都を見つめた。夜の闇に沈む城や街並み。
あそこに自分の人生があったのに、もう戻ることはできないのだろうか。
その時、川の上流方向に小さな光が揺れているのが見えた。
「あれは?」
「船です。こんな時間に川を下るとは……」
船の上の空気が張り詰める。マルコは手を止め、緊張した面持ちでその光を見つめた。
川面を下ってくる小舟。その上で松明がゆらゆらと揺れ、人影がこちら側の岸辺を注意深く見回しているのが分かる。
距離があるため詳細は判然としないが、その動きには何か探し物をしているような意図が感じられた。
「まさか、川からも……」
セシリアの声が震えた。
「可能性はある。念のため、橋の陰に隠れよう」
マルコが素早くボートの舵を切り、橋の下へと向かう。
影に入ると三人は身を低くかがめ、身を潜めた。湿った石と藻の匂いが鼻先をくすぐる。
明かりを灯した舟が、まるで巨大な目玉のようにゆっくりと彼らの近くを通り過ぎていく。
舟上の人物の視線が、まさに今自分たちが隠れている場所を舐めるように移動するのが分かった。
「……行ったな」
永遠にも感じられた時間が過ぎ、舟の明かりが完全に見えなくなってからルークがようやく口を開いた。
「ただの漁師だったかもしれないが」
マルコの言葉に、ルークは首を振る。
「この時間帯の漁師にしては、動きが不自然だった。おそらく捜索隊だろう」
セシリアは改めて事態の深刻さを実感した。陸路だけでなく、川からも追われている可能性があるのだ。
「大丈夫か?」
ルークの声に我に返る。彼の深紅の瞳が、月明かりの下で静かに自分を見つめていた。
「はい。ただ……これから先のことを考えると」
「不安になるのは当然だ。しかし、君は一人ではない」
その言葉にセシリアの胸が温かくなった。同時に、利用されてるだけでは無いかと疑う心も顔を出す。
しかし、今はそれについて考えている暇はない。
一度目を瞑ると、深く息を吸い込んで気持ちを落ち着けた。
対岸に着くと、マルコが約束通り一頭の馬を用意していた。立派な馬で、夜の闇の中でも美しい毛並みが分かる。
「君、乗馬の経験は?」
「ありません……。ご迷惑をお掛けします」
「問題ない、確認しただけだよ」
ルークは馬の首を優しく撫でながら、それをなだめるように話しかけた。
馬は彼によく懐いているようで、大人しく彼の手に身を任せている。
「ただ、初めてとなると君には辛い思いをさせるかもしれないが」
「構いません。助けて頂いてるのはこちらなので」
セシリアの健気な返答に、ルークの表情が少し緩む。
「安心してください、セシリア嬢。ルークは乗馬の達人ですから」
マルコが安心させるように、冗談めかして笑いながら言った。その軽やかな調子が、緊張した空気を少しだけ和らげる。
ルークが先に馬に跨る。その動作は流れるように美しく、馬との一体感を感じさせた。
「君は前に座るといい」
「前に?」
「あぁ。君が後ろでは万が一の時に支えられない。落馬の危険もある」
確かにその通りだった。
セシリアはマルコとルークに手伝って貰いながら、恐る恐る馬に跨った。すぐ後ろにルークの胸があり、彼の腕が自分を囲むように手綱を握っている。
まるで抱きしめられているような状況に、セシリアの顔が熱を持つ。この暗闇では見えないことを祈るしか出来ない。
「では、お気をつけて」
マルコが馬の首を軽く叩いて見送る。
馬が一頭しか居ない時点で察してはいたが、マルコはどうやら共には行かないらしい。
「ありがとう。後は頼む」
ルークが短く礼を言うと、馬は夜の街道へと向かった。
ゆっくりと歩き始めた馬の動きに合わせて、セシリアの体がルークの胸に自然と預けられる。
夜風が頬を撫で、馬の蹄音が静寂に響く。
背後に残したものと、前方に待つ未知への不安を抱えながら、セシリアは新たな逃避行の始まりを静かに受け入れた。
柔らかい月光の下、二人と一頭は闇の中を駆け抜けていく。セシリアの心は複雑な感情で満たされていた。恐怖と安堵、疑念と信頼、そして名前をつけることのできない甘い痛み。
ルークの体温が背中に伝わり、彼の心臓の鼓動が自分のそれと重なり合う。
この瞬間だけは、世界中で自分たちだけが存在しているような錯覚に陥った。
やがて王都の明かりも完全に見えなくなり、二人を包むのは星空と静寂だけとなった。
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